1951年のラジオ (日本)
主な番組関連の出来事
編集- 1月3日 - 第1回NHK紅白歌合戦を放送。
- 8月15日 - 新日本放送(現:MBSラジオ)が、この日民放初のサービス放送を開始を受け、民放初のラジオニュース番組『毎日新聞ニュース』が放送開始[1][2]。
- 9月2日 - 新日本放送が開局翌日のこの日から、松下電器(現・パナソニック)一社提供の番組『歌のない歌謡曲』が放送開始。後に中部日本放送(現:CBCラジオ)、ラジオ九州(現:RKB毎日放送)、京都放送、 ラジオ東京(現:TBSラジオ)と開局した各地域の民放にて相次いで放送が開始され、最終的に全国各地域のラジオ局で放送を開始。パナソニック一社提供としては2023年9月29日まで72年間継続、最終的には全国37局の各局で制作・放送された。それ以降は僅かだが一部の地方局で番組が引き続き放送されている(2024年9月現在も継続)。
- 10月22日 - 新日本放送が、ヴァイオリン奏者のユーディ・メニューインを招いて、特別番組『今宵一度の放送「メニューヒンの希望音楽会」』(当時の番組表記に従って記載)を、当時東京都築地にあった日本ビクターの録音スタジオから、当時としては高域特性が優れた高音質仕様のネット回線[注 1]を使って独占生中継。民放では初の本格的な来日中の外国人クラシック演奏家による生演奏の放送となった。毎日放送が1961年に発行した書籍「毎日放送十年史」の66ページには、この特番が、「わが社のみならず、民間放送史上でも特筆される音楽番組上での大ヒット」と明記されている[3][4]。
主なその他ラジオ関連の出来事
編集開局
編集節目
編集番組周年・記念回
編集開局周年
編集特別番組
編集10月放送
編集開始番組
編集1951年4月放送開始
編集- NHKラジオ第1
- 開始日不明 - 高等学校の時間
1951年9月放送開始
編集- 中部日本放送
- 1日 - ストップ・ザ・ミュージック
- 新日本放送
- 2日 - 歌のない歌謡曲
1951年11月放送開始
編集- 朝日放送
1951年12月放送開始
編集- ラジオ東京
終了番組
編集再開番組
編集注釈
編集- ^ 毎日放送が2001年9月に発行した書籍「毎日放送50年史」の60~1ページには、この放送当時、通常は東阪間の中継回線は電話回線しか空きがなく、高域特性が最高5kHzまでの放送用回線はNHKが専用に使用していたので、この生放送に際し、それが最高7.5kHzまでというNHKのそれよりも優れていた進駐軍専用の放送回線を特別に使用して放送した、と明記されている。
脚注
編集- ^ 毎日放送50年史編纂委員会事務局『毎日放送50年史』株式会社 毎日放送、2001年9月1日、52頁。
- ^ a b 毎日放送 編『毎日放送十年史』毎日放送、1961年12月15日、24頁。NDLJP:2496354/48。
- ^ a b 毎日放送50年史編纂委員会事務局『毎日放送50年史』株式会社 毎日放送、2001年9月1日、59~61,471頁。
- ^ a b 毎日放送 編『毎日放送十年史』毎日放送、1961年12月15日、66~7頁。NDLJP:2496354/92,NDLJP:2496354/93。
- ^ 毎日放送 編『毎日放送十年史』毎日放送、1961年12月15日、23頁。NDLJP:2496354/47。
- ^ a b 毎日放送50年史編纂委員会事務局『毎日放送50年史』株式会社 毎日放送、2001年9月1日、52,470頁。
- ^ a b c 毎日放送 編『毎日放送十年史』毎日放送、1961年12月15日、33頁。NDLJP:2496354/59。
- ^ a b 毎日放送50年史編纂委員会事務局『毎日放送50年史』株式会社 毎日放送、2001年9月1日、56,470~1頁。
- ^ 『放送の五十年 昭和とともに』, pp. 334–335.
- ^ ラジオ体操の歴史 かんぽ生命
参考文献
編集- 日本放送協会 編『NHKラジオ年鑑1951』ラジオサービスセンター、1951年12月1日 。
- 日本放送協会 編『NHKラジオ年鑑1953』ラジオサービスセンター、1952年12月1日 。
- 日本放送協会 編『放送五十年史』日本放送出版協会、1977年3月10日 。
- 日本放送協会 編『放送五十年史 資料編』日本放送出版協会、1977年3月10日 。
- NHK 編『放送の五十年 昭和とともに』日本放送出版協会、1977年3月30日 。