1946年のパシフィック
1946年のパシフィックでは、1946年シーズンのパシフィックの動向をまとめる。
1946年のパシフィック | |
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成績 | |
レギュラーシーズン7位 | |
42勝60敗3分 勝率.412[1] | |
本拠地 | |
都市 | 関西 |
球場 | フランチャイズ制導入前 |
球団組織 | |
オーナー | 田村駒治郎 |
経営母体 | 田村駒 |
監督 | 藤本定義 |
« 1945 1947 » |
この年のパシフィックは、職業野球再開1年目のシーズンであり、藤本定義監督の1年目のシーズンである。翌年にチーム名を「太陽ロビンス」に改称したため、「パシフィック」として戦った唯一のシーズンである。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 中 | 富松信彦 |
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2 | 右 | 木暮力三 |
3 | 一 | 辻井弘 |
4 | 二 | 小島利男 |
5 | 左 | 森下重好 |
6 | 捕 | 伊勢川真澄 |
7 | 遊 | 松井信勝 |
8 | 三 | 平野徳松 |
9 | 投 | 井筒研一 |
順位 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 近畿 | -- | 巨人 | -- | 大阪 | -- | 近畿 | -- | 近畿 | -- | 近畿 | -- |
2位 | 阪急 | 0.0 | 阪急 | 2.5 | 巨人 | 3.5 | 大阪 | 1.5 | 巨人 | 3.5 | 巨人 | 1.0 |
3位 | 巨人 | 1.0 | 大阪 | 4.0 | 近畿 | 5.0 | 巨人 | 3.5 | 大阪 | 6.0 | 大阪 | 7.0 |
4位 | 大阪 | 近畿 | 4.5 | 阪急 | 8.0 | 阪急 | 9.0 | 阪急 | 13.0 | 阪急 | 14.0 | |
5位 | ゴールド | 2.0 | パシフィ | 8.5 | 中部日本 | 11.5 | ゴールド | 17.0 | セネター | 17.0 | セネター | 19.0 |
6位 | パシフィ | 4.0 | ゴールド | 8.5 | ゴールド | 15.0 | セネター | 17.5 | パシフィ | 19.5 | ゴールド | 22.0 |
7位 | セネター | 4.0 | セネター | 10.0 | セネター | 15.5 | パシフィ | 18.5 | ゴールド | 20.0 | パシフィ | 22.5 |
8位 | 中部日本 | 4.0 | 中部日本 | 10.0 | パシフィ | 17.5 | 中部日本 | 21.0 | 中部日本 | 21.0 | 中部日本 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
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優勝 | 近畿グレートリング | 65 | 38 | 2 | .631 | - |
2位 | 東京巨人軍 | 64 | 39 | 2 | .621 | 1.0 |
3位 | 大阪タイガース | 59 | 46 | 0 | .562 | 7.0 |
4位 | 阪急軍 | 51 | 52 | 2 | .495 | 14.0 |
5位 | セネタース | 47 | 58 | 0 | .448 | 19.0 |
6位 | ゴールドスター | 43 | 60 | 2 | .417 | 22.0 |
7位 | 中部日本 | 42 | 60 | 3 | .412 | 22.5 |
パシフィック | 42 | 60 | 3 | .412 | 22.5 |
できごと
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選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
真田重蔵 | 最多奪三振 | 200個 | 初受賞 |
出典
編集- ^ “年度別成績 1946年 日本野球連盟”. 日本野球機構. 2017年9月23日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 152
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。