- 12月15日~12月25日 - 東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局、「聖上御容体」「臨時ニュース」と題し、通常のニュース編成を延長して大正天皇の病状を逐次報道。16日からは娯楽演芸番組を中止し、24日夜以降は一般講演番組も中止した。25日の未明(東京で2時54分、大阪・名古屋で3時00分、天皇崩御を速報。速報後は時報、ニュース、天気予報以外の放送を中止。
- 8月20日 - 東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の3社団法人が合同し、社団法人日本放送協会が発足。各旧法人はそれぞれ関東支部・関西支部・東海支部となり、放送時の呼出名称を「東京中央放送局」「大阪中央放送局」「名古屋中央放送局」に変更。
- 10月27日 - 日本放送協会、第一期放送施設五か年計画を策定。「全国鉱石化」(全国どこででも、簡単な構造の鉱石ラジオで放送が聞ける環境をつくる)をスローガンに、送信出力の増強や、地方局の開局計画を進行させた。
- 12月1日 - 大阪中央放送局、演奏所を上本町の本局舎に移転し、中波放送の本放送を開始。送信出力を1キロワットに増強[2]。
- ^ 日本放送協会(編)『日本放送協会史』(日本放送協会、1939年)p.131