1911年のパリ・マドリード間レース
1911年のパリ・マドリード間レース(せんきゅうひゃくじゅういちねんのパリマドリードかんレース)は、1911年5月21日から26日の間に行われた、飛行機によって最初に行われた本格的な長距離飛行レースである。文字通りパリからマドリード(マドリッド)までで行われた。
10万フランの賞金が懸けられ、1200kmの距離で争われるはずのレースだったが、当時の飛行機の技術レベルに対しては過酷なレースであり8機の参加機のうちマドリードまで飛行できたのは1機だけだった。出発時に大きな事故がおきた。
レースは3ステージに分けられ、第1ステージはパリからアングレーム、第2ステージはアングレームからスペイン国境のサンセバスチアン、第3ステージがマドリードまでであった。
参加者
編集参加者と乗機は以下のとおりである。
- アンドレ・ボーモン(André Beaumont:ブレリオ XI)
- ピエール・ディヴァタン(Pierre Divétain:アンブローゼ・グーピー)
- アンドリュー・フライ(André Frey: モラーヌ・ソルニエ)
- ローラン・ギャロス(Roland Garros:ブレリオ XI)
- ルイ・ジルベール(Louis Gibert:ブレリオ XI)
- ジルベール・ルラスール(Gilbert Le Lasseur de Ranzay:ブレリオ XI)
- エミール・ルイ・トラン(Emile Louis Train: トラン単葉機)
- ジュール・ヴェドリーヌ(Jules Védrines:モラーヌ・ソルニエ A)
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ブレリオ XI
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グーピーno2
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モラーヌ・ソルニエ A
スタートと事故
編集5月21日、20万人ともいわれる観衆が イシー=レ=ムリノー飛行場に集まり、1911年5月21日の午前6時に参加者の離陸が始まった。ボーモンとジルベール、ギャロス、ルラスールは離陸に成功したが、フライは離陸に失敗し、ヴェドリーヌの飛行機は準備が整わず翌日出発することになった。
5番目に出発したトランの機は唯一、同乗者を乗せることができ、同乗者を乗せていたが、飛行機の調整は十分でなく、離陸すると飛行が不安定となり、出発点に戻ろうとして観衆の中に突っ込んでしまった。来賓の国防大臣モーリス・ベルトゥー (Maurice Berteaux) やフランス航空界の大御所、アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトらが負傷した。最も深刻だったのは国防大臣のモーリス・ベルトゥーでプロペラで頭と腕を負傷し、飛行場で死亡した。事故の様子は映画に記録されており、翌日パリで公開されたニュース映画は大きな衝撃を与えた。
レースの結果
編集第1ステージを飛行し、アングレームに到着できたのは、ギャロス、ジルベール、ヴェドリーヌの3人であった。
フライは Etampes に不時着しリタイアした。ルラスールは進路を失い、ボーモンは2時間以上を飛行したところで、プロペラを破損しリタイアした。ギャロスが390kmを4時間48分で飛行した。5月23日のサンセバスチアンまでの第2ステージに出発できたのは、ギャロスとヴェドリーヌだけになっていた。ヴェドリーヌが335kmを3時間45分で飛行し、ギャロスより2時間先着した。5月25日にスタートした第3ステージでギャロスは20km飛行したところで不時着し、再度飛び立ったがVitoria近くのOlazagutiaで飛行を中止した。ヴェドリーヌは夕刻、Burgosに着陸し、翌日の8時にマドリードから15kmのGetafe飛行場に到着して優勝した。
参考文献
編集- Almanach Pratique du Petit Parisien, 1911
- Biographie de M. Berteaux sur le site de Maisons Laffitte
関連項目
編集- 1910年のロンドン・マンチェスター間エアレース - 1906年から行われた賞金付きレース