黄石山城の戦い(こうせきさんじょうのたたかい)は、慶長の役において朝鮮軍が守る黄石山城を日本軍が攻略した戦い。

黄石山城の戦い
戦争慶長の役
年月日慶長2年8月14、5日頃~16日1597年9月25、6日頃~27日
場所朝鮮国慶尚道咸陽郡
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
朝鮮国 豊臣政権
指導者・指揮官
郭䞭 毛利秀元
戦力
- 64,300余
損害
350以上戦死 -
文禄・慶長の役

概要

編集

日本軍の右軍先鋒加藤清正は7月25日西生浦を発し梁山に至り主将毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊これに属す)及び黒田長政鍋島直茂父子、池田秀氏中川秀成長宗我部元親父子等と会し、ここに全軍の集中を終え、霊山を経て昌寧に到る。此地の東方約1里に火王山城があり郭再祐等がここを守っていたが、日本軍はこれを無視して前進する。

右軍は昌寧より西に折れ草渓陜川を経て安陰に向かう。すると所在の朝鮮軍は皆逃散する。日本軍が安陰に至ったとき黄石山城がただ独り堅守して屈せず。

黄石山城は安陰の西北約2里に在り四方斗絶し険峻甚だしく慶尚全羅2道の咽喉を扼していた。安陰県監郭䞭が入ってこれを守り、金海府使白士霖、前咸陽郡守趙宗道は兵を率い来てこれを助け安陰、居昌、咸陽3郡県の軍民数千人を募り、城の各所に分置する。西南二方面は郭䞭自らこれに当り、東北二方面は白士霖が指揮し、趙宗道は遊軍となる。白士霖は武官の出身であったため城兵はこれを頼みとした。

8月中旬(日子未詳、蓋し14、5日頃)、日本軍は諸隊を部署し加藤清正は南面より、鍋島直茂父子は西面より、黒田長政等は東面よりこれを囲み(其の他の区分未詳)、竹束盾を連ね、柵を結って城に迫り、16日(明暦17日)の夜、月明に乗じて総攻撃を開始する。このとき白士霖は逃走した。郭䞭は持場を離れず戦ったが、加藤の士森本義太夫等が南門に先登し、神田対馬が郭䞭を打ち取った。郭䞭の子、郭履常、郭履厚及び趙宗道等は皆ここに戦死し、日本軍は350餘の首級を挙げ黄石山城は陥落した。さらに諸隊は追撃し、山谷の間に斬殺するもの無数。翌日勝利を豊臣秀吉に報ず。

右軍はその後、六十嶺を越え鎮安を経て全州に至り左軍と会合し、両軍ここに駐まること数日、24日全州城を破毀する。この頃、豊臣秀吉の使(姓名未詳)が来て両軍の報告を聴取する。ここにおいて宇喜多秀家、毛利秀元以下の諸将は会議して今後の方略を定め、毛利秀元(吉川広家等を除く)加藤清正、黒田長政、の3隊約4万人は目付太田一吉竹中重利の2人がこれを監し北上して公州方面に進み長宗我部元親父子、鍋島直茂父子、吉川広家、池田秀氏、中川秀成等は左軍に属して忠清、全羅2道の討伐に従事する。

両軍の構成

編集
  • 朝鮮軍の構成[2]
    • 郭䞭(安陰県監)
    • 白士霖(金海府使)
    • 趙宗道(前咸陽郡守)

脚注

編集
  1. ^ 津野倫明「慶長の役(丁酉再乱)における長宗我部元親の動向」2004年(黒田慶一編『韓国の倭城と壬辰倭乱』岩田書院)
  2. ^ 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995年、吉川弘文館

参考文献

編集
  • 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』 偕行社、大正13年(1924年)
  • 朝鮮王朝編 『宣祖実録』 宣祖30年9月戊子

関連項目

編集
  • 南原城の戦い - 同時期に左軍が南原城を攻略した戦い。
  • 稷山の戦い - その後、忠清道を北上した右軍が明軍を撃退した戦い。