麛坂皇子

日本の古墳時代の皇族

麛坂皇子(かごさかのみこ/かごさかのおうじ、生年不詳 - 神功皇后元年2月)は、記紀に伝わる古代日本皇族

関係略系図(表記・記載は『日本書紀』による)

神功皇后
 
14 仲哀天皇
 
大中姫命
彦人大兄命女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇麛坂皇子忍熊皇子

日本書紀』では「麛坂皇子」や「麛坂王」、『古事記』では「香坂王」と表記される。

第14代仲哀天皇皇子で、応神天皇との間での対立伝承で知られる。

系譜

編集

日本書紀』(『古事記』)によれば、第14代仲哀天皇と、彦人大兄命(大江王)の娘の大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)との間に生まれた皇子である。同母弟に忍熊皇子(忍熊王)がいる。第15代応神天皇の異母兄である。

記録

編集

『日本書紀』『古事記』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后誉田別尊(後の応神天皇)を産んだ。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。

皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って播磨赤石(現在の兵庫県明石市)に陣地を構築し[1]倉見別犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(大阪市北区兎我野)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)を行った際、皇子はに襲われて食い殺されたという。

考証

編集

『日本書紀』『古事記』に記される麛坂皇子の反乱説話は、神功皇后の非実在性と同様に史実ではないと見る説がある[2]王朝交替説では、神功・応神説話は古王朝(崇神天皇朝)と中王朝(仁徳天皇朝)をつなぐもので、麛坂皇子の説話もその挿話の1つとする説があるが、王朝交替説自体明らかでなく定かとはされていない[2]

脚注

編集
  1. ^ 五色塚古墳兵庫県神戸市)に基づく伝承と見られる(岸本道昭 「五色塚古墳 -播磨の政権-」『ここまでわかった! 古代王権と古墳の謎(新人物文庫356)』 『歴史読本』編集部編、KADOKAWA、2015年)。
  2. ^ a b かご坂皇子(国史) & 1983年.

参考文献

編集
  • 亀田隆之「麛坂王」『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1983年。ISBN 464200503X 
  • 「麛坂皇子」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 

関連項目

編集