鹿江三郎
鹿江 三郎(かのえ さぶろう、1881年〈明治14年〉10月6日 - 没年不詳)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍砲術学校校長を務めた海軍少将であり、予備役後は逗子開成中学校長[1]を務めた。
鹿江 三郎 | |
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所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1902 - 1930 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 逗子開成中学校長 |
人物・来歴
編集略歴
編集佐賀県出身。海軍兵学校30期。席次は187名中41番。同期に百武源吾、松山茂、金子養三らがいる。「東雲」乗組みとして日本海海戦に参戦した。鹿江は海大乙種、砲術学校高等科学生を修了した砲術専攻士官で、6艦で砲術長を務めたほか砲術学校教官を4度務めている。中佐進級と同時に発令された教官配置は5年半に渡り、在任中に教頭心得、大佐進級と同時に正式に教頭に就任している。在任中は射撃科長などを務め、机上射撃演習機の改良などを行った[2]ほか、艦隊の演習に際しては審判官にも度々任じられている。次いで「平戸」艦長に就任。在任中に関東大震災が発生し、被災者、救援物資の輸送任務に従事した。練習艦隊所属の「八雲」艦長として遠洋航海の成功に貢献し、横須賀海兵団長に転じる。1926年(大正15年)12月少将に昇進し、砲術学校校長に就任。同職を2年務め、鹿江の砲術学校勤務は10年を超えた。美保関事件では軍法会議判士を務めた[3]。1930年(昭和5年)6月、予備役編入となる。
栄典
編集- 位階
- 1904年(明治37年)3月18日 - 正八位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 従七位[5]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 正七位[6]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 従六位[7]
- 勲章等
関東大震災
編集鹿江は関東大震災で妻子を失っている。同郷の福地誠夫は当時海兵生徒であったが、鹿江家とは親しい間柄であった。東京にいた福地は輸送任務にあたっていた「平戸」に乗艦し帰校したが、鹿江は艦長室に遺骨を置いて任務に挺身していた。鹿江は毅然たる態度であり、福地は海軍の勤務の厳しさを実感したという[9]。なお鹿江、福地は佐賀出身海軍士官の団体である知新会に属していた。
射撃科長
編集鹿江が務めた砲術学校射撃科長は、砲術学校での指導のほかにも次のような任務があった。このため射撃科長は日本海軍砲術のリーダーともいうべき配置であった[10]。同職は草鹿任一なども務めている。
- 連合艦隊の射撃訓練に際して、成績調査や講評、砲術学校の所見案の起草
- 翌年度の訓練研究項目案を作成し教育局と協議
- 砲術(射撃)教範の起草審議作成
- 砲術関係の兵機設備の改善を他の部局と連絡協議
砲術長を務めた艦
編集脚注
編集参考文献
編集- アジア歴史資料センター「呉・舞鶴方面(1)」(Ref:C08051005500)
- 五十嵐邁『美保関のかなたへ日本海軍特秘遭難事件』角川ソフィア文庫、2005年。ISBN 978-4-04-405801-2。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
- 草鹿提督伝記刊行会編『提督 草鹿任一』光和堂、1981年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 提督新見政一刊行会『提督新見政一 自伝と追想』原書房、1995年。ISBN 4-562-02696-0。
- 秦郁彦編著『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
- 福川秀樹『日本陸海軍将官辞典』芙蓉書房出版
- 福地誠夫『回想の海軍ひとすじ物語』光人社、1985年。ISBN 4-7698-0274-9。
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房