鶴殿家勝
鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉11月12日[1] - 1956年〈昭和31年〉6月26日[1][2])は、大正から昭和期の実業家、政治家、写真家、華族。貴族院男爵議員。霞汀(かてい)と号した[3]。位階は従三位[4]。
鶴殿家勝 つるどの いえかつ | |
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貴族院事務局『貴族院要覧(丙) 昭和二十一年十二月増訂』より | |
生年月日 | 1891年11月12日 |
没年月日 | 1956年6月26日(64歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学政治学科卒業 |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 公正会 |
称号 | 従三位 |
配偶者 | 鶴殿輝子 |
親族 |
父・鶴殿忠善(貴族院議員) 義父・毛利五郎(貴族院議員) 伯父・九条道孝(貴族院議員) 伯父・醍醐忠敬(元老院議官) 叔父・鷹司煕通(貴族院議員) 叔父・二条基弘(貴族院議員) 義兄・毛利元良(貴族院議員) 従兄・九条道実(貴族院議員) 従兄・二条厚基(貴族院議員) 従兄・鷹司信輔(貴族院議員) 従兄・醍醐忠重(貴族院議員) |
在任期間 | 1943年5月6日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集男爵・鶴殿忠善の息子として生まれる[1][注釈 1]。父の死去に伴い、1895年(明治28年)4月5日に男爵を襲爵した[1][5][6][7]。
学習院を経て[6]、1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業[2][5][8]。梅田製鋼取締役、大阪無線監査役、日本造船監査役、鐘渕実業嘱託などを務めた[2][5]。
1943年(昭和18年)5月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9][10]、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
また、写真家としても活動し、ゴム印画を研究して、東京写真研究会主催研展に出品[3]。神戸市居住時には、神戸写友会に加わり、同会25周年記念撮影大会で作品「富士」が一等を受賞した[3]。
親族
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 文献によって長男、二男と記載され一定していない。
出典
編集- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』120頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。
- ^ a b c d 『日本の写真家』269頁。
- ^ 『火曜会所属・公正会所属貴族院議員録 72コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』ツ54頁。
- ^ a b c 『華族畫報 上』310頁。
- ^ 『官報』第3527号、明治28年4月6日。
- ^ 『京都帝国大学一覧 自大正6年 至大正7年』京都帝国大学、1918年、326頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
- ^ 『官報』第4893号、昭和18年5月8日。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 東京都写真美術館監修『日本の写真家:近代写真史を彩った人と伝記・作品集目録』日外アソシエーツ、2005年。
- 杉謙二編『華族畫報 上』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位 | ||
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先代 鶴殿忠善 |
男爵 鶴殿家第2代 1895年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |