鴨祐為

1740-1801, 江戸時代中期の京都の神官、歌人

鴨 祐為(かも の すけため)とは、江戸時代中期から後期にかけての神官歌人梨木祐為とも称す。

 
鴨祐為
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文5年(1740年
死没 享和元年6月17日1801年7月27日
別名 梨木祐為
諡号 源光院殿
官位 正四位下上総介
氏族 賀茂氏梨木家
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経歴

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正三位鴨祐之の孫。賀茂県主氏の流を汲み、代々下鴨神社禰宜を務めた梨木(なしのき)家に生れる。官位正四位下上総介。幼少のころより和歌を好み冷泉為村に師事し、その生涯を通して10万首を超える和歌を詠んだといわれる。また早詠をもって世に知られており、私家集『鴨祐為歌集』の詞書には線香3寸を立て、その燃え尽きる間に50首を詠じたと記す。さらに一日に1000首詠むという「一日千首」というものも数度行なっている。家集に『和歌秘宝抄』、『鴨祐為集』があるほか、『大和路紀行』(安永3年〈1774年〉)、『かひの雫』(寛政8年〈1796年〉)などの紀行文を残す。

また和歌と共に絵も幼少より好み、西川祐信の絵を好んで模写していたが、九歳の秋に父母の勧めで西川祐信に入門し絵を学んだ。しかし絵手本を一巻習ったところで祐信は没してしまったと、絵入俳書『職人尽発句合』(五升庵瓦全編、寛政9年刊)の跋文には記している。『国書人名辞典』は土佐家にも絵を学んだとする。絵の作には『職人尽発句合』の挿絵と肉筆画「美人立姿図」(絹本着色)が知られる。「美人立姿図」は画風に祐信の影響がうかがえ、「鴨祐為筆」の落款に「雷岡隠士」の方印を捺す。「雷岡」とは上賀茂神社の祭神賀茂別雷命にちなむという。享年62[1]。上寺町の西園寺に葬られ、源光院殿と諡された。

脚注

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  1. ^ 『和歌古短冊影譜』は享年63としている。

参考文献

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  • 花咲一男編 『江戸職人づくし集 未刊』 渡辺書店、1973年 ※『職人尽発句合』所収
  • 楢崎宗重監修 『肉筆浮世絵第九巻 祐信 雪鼎』 集英社、1982年
  • 市古貞次ほか編 『国書人名辞典』(第一巻) 岩波書店、1996年
  • 熊谷武至 『続々歌集解題余談』〈『近世和歌研究書要集』第七巻〉 クレス出版、2005年 ※「梨木祐為文献傍註」(42 - 46頁)