青森県弘前市出身。1912年、弘前市内の百石町の筋にあった呉服屋「久一鳴海」の家に生まれる。 父は鳴海伝次郎。母はヒサ。長兄は鳴海順一郎。
東洋音楽学校卒業後、1942年(昭和17年)デビュー。同年発売した「空の神兵」(梅木三郎作詞、高木東六作曲)が大ヒットする。
翌年、「戦友の遺骨を抱いて」のビクターレコード版を吹き込む(この曲は各社競作)。戦後は作曲活動などを行う。
戦後、(甥である筆者の父の弁によると)軽薄化していく芸能界に嫌気が差したらしく、表立った音楽活動よりも加藤登紀子やにしきのあきらといった、他の歌手の歌唱指導を主としていた。
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