鳥海剛
鳥海 剛(とりうみ たけし[1]、1891年(明治24年)1月11日[1] - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。
経歴・人物
編集東京市中野区大和町に生まれる[2]。岩手県立一関中学校を中途退学し、私立横浜英語学校へ入学[2]。ついで正則英語学校分校を経て、1917年(大正6年)7月、中央大学法科専門部を卒業する[2]。
卒業後、明治神宮造営局属外苑課経理課次、社会局属を経て、1929年(昭和4年)6月、拓務省へ転じ、1931年(昭和6年)4月、拓務理事官に進んだ[2]。南米課勤務を経て台湾総督府属理事官に任ぜられ、1936年(昭和11年)4月に嘉義市助役、1937年(昭和12年)11月に台北州七星郡守に就任した[2]。ついで宜蘭市長を経て、1942年(昭和17年)4月、花蓮港市長に就任した[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 太田肥州 編『新台湾を支配する人物と産業史』台湾評論社、1940年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。