魏初
魏 初(ぎ しょ、1226年 - 1286年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は大初。弘州順聖県の出身。
生涯
編集魏初はモンゴル帝国皇族のクビライに仕えた魏璠の従孫で、魏璠に子供がいなかったことからその後継者とされた人物であった。魏初は幼いころから読書を好み、『春秋』の読解などで既に名が知られていた。1260年(中統元年)に中書省が設立されると、掾史・兼掌書記に任じられたが、ほどなく老齢の祖母のため職を辞し郷里に戻った。しかし魏初の名声を知っていたクビライより改めて招かれ、国史院編修官、ついで監察御史の地位を授けられた[1]。
ある時、クビライが上都の行宮にて宴を催していると、酒杯を飲み干せず酔い潰れた者がいたため、定められた冠服を免じたことがあった。これに対し、魏初は冠服は君臣間の尊卑の礼を表すものであって軽視すべきではないと諫言し、クビライもこれを認めて侍臣に同じことをしないよう諭したという。またこのころ、南宋平定の要衝である襄陽・樊城攻めが佳境にあり、大都路内の大興県より民の徴兵を始めることが予定されていた。しかし魏初は京師(大都)は天下の根本であって、民に負担をかけるべきではないと述べ、これをやめさせたという。その後、陝西四川按察司事、陝西河東按察副使、治書侍御史、江南行台の侍御史、江西按察使、中丞などを歴任した後、81歳にして死去した。息子には集賢侍講学士となった魏必復がいた[2]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻164列伝51魏初伝,「初、其従孫也、璠無子、以初為後。初好読書、尤長於春秋、為文簡而有法、比冠、有声。中統元年、始立中書省、辟為掾史、兼掌書記。未幾、以祖母老辞帰、隱居教授。会詔左丞許衡・学士竇默及京師諸儒、各陳経史所載前代帝王嘉言善政、選進読之士、有司以初応詔。帝雅重璠名、方之古直、詢知初為璠子、歎奨久之、即授国史院編修官、尋拝監察御史。首言『法者、持天下之具、御史台則守法之司也。方今法有未定、百司無所持循、宜参酌考定、頒行天下』」
- ^ 『元史』巻164列伝51魏初伝,「帝宴群臣於上都行宮、有不能釂大巵者、免其冠服。初上疏曰『臣聞君猶天也、臣猶地也、尊卑之礼、不可不肅。方今内有太常・有史官・有起居注、以議典礼・記言動。外有高麗・安南使者入貢、以観中国之儀。昨聞錫宴大臣、威儀弗謹、非所以尊朝廷・正上下也』。疏入、帝欣納之、仍諭侍臣自今毋復為此挙。時襄樊未下、将括民為兵、或請自大興始。初言『京師天下之本、要在殷盛、建邦之初詎宜騷動』。遂免括大興兵。初又言『旧制、常参官諸州刺史、上任三日、挙一人自代。況風紀之職与常員異、請自今監察御史・按察司官、在任一歳、各挙一人自代、所挙不当、有罰、不惟砥礪風節、亦可為国得人』。遂挙勧農副使劉宣自代。出僉陝西四川按察司事、歴陝西河東按察副使、入為治書侍御史。又以侍御史行御史台事于揚州、擢江西按察使、尋徵拝侍御史。行台移建康、出為中丞、卒、年六十一。子必復、集賢侍講学士」