高田繁頼
高田 繁頼(たかだ しげより)は、戦国時代の武将。高田城(現・群馬県富岡市妙義町下高田)城主。
生誕 | 大永6年(1526年) |
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死没 | 元亀4年4月5日(1573年5月6日) |
別名 | 小次郎、大和守 |
主君 | 上杉憲政→北条氏康→上杉謙信→武田信玄 |
氏族 | 高田氏 |
父母 | 父:高田憲頼(遠春?) |
兄弟 | 右衛門佐、繁頼 |
妻 | 安中重繁の娘 |
子 | 信頼 |
生涯
編集高田氏は上野国甘楽郡における国衆。甘楽郡菅野荘一帯の高田川流域を領域支配していた他、西牧川流域の西牧(現・下仁田町西野牧)も支配していた可能性も示唆されている[1]。
系譜に関して、黒田基樹や丸島和洋は繁頼を山内上杉氏の家臣・高田憲頼の次男としている一方[2][3]、久保田順一は『寛政重修諸家譜』における「憲頼」を繁頼と同一人物とし、繁頼の父は系図上の「遠春」であるとしている[1]。天文16年(1547年)8月の信濃小田井原の戦いで父・憲頼(もしくは遠春)と兄・右衛門佐が戦死し、家督を継ぐ[2]。
天文21年(1552年)に主君・上杉憲政が後北条氏に関東を追われると、繁頼は後北条氏に従ったとみられる。永禄3年(1560年)に上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻が起きると、謙信に従い、箕輪長野氏の指揮下に入る。『関東幕注文』によると、この時点では「小次郎」を称している[2]。翌4年(1561年)11月に武田信玄の西上野侵攻を受けると降参し、武田氏の従属下に入る。武田氏配下においては、同じ甘楽郡の国衆で国峯城主・小幡信実の同心とされたと考えられている[4]。同10年(1567年)8月7日付で提出された『下之郷起請文』では「高田大和守繁頼」の名乗りが確認され、取次の原昌胤に単独で提出している[2]。同12年(1569年)6月に武田氏から離反した小幡信尚を追討し、その功を信玄から評されている。同年10月の武田軍による小田原城攻めでは先鋒を務めた。
元亀3年(1572年)12月の遠江三方ヶ原の戦いに参陣し、負傷した。その傷が元で翌年に死去。享年48。家督は嫡男の信頼が継いだ[2]。