高橋高種

日本の戦国時代の武将

高橋 高種(たかはし たかたね)は、戦国時代の武将。筑後国出身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢宗瑞(北条早雲)に従った。

 
高橋高種
時代 室町時代末期 - 戦国時代
生誕 文明2年1月11日1470年2月12日
死没 永正12年8月3日1515年9月10日
改名 龍千代丸、武種、雲見庵真龍斉
別名 高橋左近太郎将監
戒名 高龍院殿前左新衛校尉青雲日雄大居士
墓所 常在寺(松崎町)
官位 左近将監
幕府 室町幕府申次衆奉公衆
主君 足利義尚足利政知伊勢宗瑞
氏族 大蔵姓高橋氏
父母 父:高橋顕種、母:畠山政長娘(神保為行養女)
兄弟 高種長種
正室:伊勢宗瑞養女[1]、継室:伊勢宗瑞娘[2]
北条綱高氏高、日栄、女子(南条右京亮室)、女子(高橋兵庫室)某
特記
事項
三鷹市史『牟礼高橋系図』に基づき作成
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生涯

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筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16年(1484年)母方の縁者畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、文明19年/長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に参加。長享3年(1489年)に足利義尚が病死すると、畠山政長の内意により、堀越公方足利政知に請われて伊豆国へと赴き、伊豆雲見城を与えられてその城主となる。しかし延徳3年(1491年)に政知が死去すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を殺害するなど、その勢力は衰退の一途を辿る。

高種は伊豆雲見に蟄居したが、伊勢宗瑞の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢宗瑞に従い、伊豆平定で戦功を挙げた(高橋文書)。この時の戦功で、伊勢宗瑞の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。明応3年(1494年相模大森氏からの小田原城奪取にも参加し、奇策をもって功を挙げた。また、文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築くなど海岸の防備を強固にし、活躍した。この時に、高橋左近将監高種と改名した。しかし、中年より足病を発し、常に籠居していた。このため、永正12年(1515年)8月3日没に死去。46歳。家督は長男の北条綱高(高橋種政)が北条氏綱の猶子となり、別家を興したため、次男高橋氏高が継いだ。

備考

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  • 伊勢宗瑞(北条早雲)も一時期足利義尚に仕えており、京都で宗瑞と高種が顔を合わせていた可能性が高い。その縁があり、高種が伊豆に下向後、堀越公方家が衰退すると盛時に一門として取立てられたものと推測される。

脚注

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  1. ^ 高雲院殿前北条大夫人妙晴日芳大法尼:外山豊前守娘、永正3年(1506年)7月13日没
  2. ^ 高蘭院殿前北条大夫人青光日芳大芳尼、永禄2年(1559年)7月13日没