高橋敬緯子
高橋 敬緯子(たかはし けいこ、1934年6月22日 - [1])は、日本のファッションモデル。1955年のミス・ユニバース・ジャパンであり、同年7月にカリフォルニア州のロングビーチで行われたミス・ユニバース1955(第4回世界大会)に出場し、第5位に入賞した。
高橋敬緯子 | |
プロフィール | |
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生年月日 | 1934年6月22日 |
現年齢 | 90歳 |
出身地 | 日本 東京府(現:東京都) |
公称サイズ(1955時点) | |
身長 / 体重 | 166 cm / 55 kg |
BMI | 20 |
スリーサイズ | 86 - 64 - 89 cm |
活動 | |
ジャンル | ファッション |
備考 | ミス・ユニバース1955 第5位入賞 |
事務所 | NDK |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
経歴・人物
編集1955年、20歳のとき[2]東京代表として[3]ミス・ユニバース・ジャパンに応募。優勝し、国を代表して世界大会に出場する権利を得る。この時の体重は54キロ、スリーサイズは85-56-86と報道されている[4]。
写真家・林忠彦は日本代表選考会の様子を撮影、「バヤリース・フオトコンテスト」に組写真「日本代表誕生」を応募、一等入選。その特典として高橋敬緯子とともに渡米、ミス・ユニバースの取材の他全米各地の写真を撮影した[5][6]。
1955年7月、カリフォルニア州のロングビーチで行われたミス・ユニバース1955(第4回世界大会)に出場し、第5位に入賞した[7]。このときは166センチ、55キロ。86-64-89[2]。
1956年11月28日、馬場祥江らと共に大阪市中央区道頓堀の文楽座でネッカチーフのショーに出演[8]。1956年12月、弘前市でのイベントに招待され、その足で喫茶店「万茶ン」に立ち寄ったと記録に残っている。「店主の祖母の弟にはロサンゼルスで世話になった」と告げたところ、驚かれた[9]。
その後、2年ほどNDKに所属しファッションモデルとして活動した後、1957年5月、第一物産[10]社員・辻暎一郎と結婚した[1][4](夫は後に三井物産の社員を経て常務となった)。1959年当時、夫と共に東京都内の公団住宅に住んでいた[4]。1974年時点で14歳の娘があり、家族3人でニューヨークに住んでいた[11]。その後、夫は常務を退き、2015年に86歳で死去。敬緯子は告別式で喪主を務めた[12]。
脚注
編集- ^ a b 「人事興信録 第21版 下」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 相沢正夫『数字雑学事典』毎日新聞社、1977年4月5日、90-91頁。 NCID BA75766185。
- ^ 「ミス・ユニバース ミス・ワールド 日本大会の足跡」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、70頁、doi:10.11501/1809539。
- ^ a b c 「高橋敬緯子」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、38頁、doi:10.11501/1809539。
- ^ 林義勝 (2015年8月17日). “林忠彦写真集「AMERICA1955」発売中!”. jps.gr.jp. 公益社団法人日本写真家協会. 2021年4月22日閲覧。
- ^ “林忠彦プロフィール”. fotonoma.jp. 富士フイルム株式会社. 2012年7月12日閲覧。
- ^ “1955”. pageantopolis.com. 2012年2月7日閲覧。
- ^ 「ネッカチーフ・ショウ 大阪でY・N・Sが開催」『装粧品新聞』第104号、財団法人日本装業会、1956年12月15日、8頁。
- ^ 「突然現れたミス日本(弘前こーひー物語:21)」『朝日新聞』1998年8月19日、朝刊。
- ^ 財閥解体の時期における旧三井物産系の中心会社
- ^ 「23年間のミス・ユニバース 美女の運命はいかに?」『週刊朝日』第79巻第20号、朝日新聞社、1974年5月3日、139-143頁。
- ^ 「辻暎一郎氏が死去 元三井物産常務」『日本経済新聞』2015年7月18日。