高橋応真
明治時代の日本画家
高橋 応真(たかはし おうしん、安政2年10月11日(1855年11月20日)[1] - 明治34年(1901年)7月12日)は明治時代の日本画家。
略歴
編集松本楓湖及び柴田是真の門人。通称は善之助または善之介。安政2年(1855年)に武蔵国(江戸)北豊島郡鴬塚村金杉(後の下谷区下根岸、現・台東区根岸)において田安家の家士の高橋栄賢の長男として生まれる。9歳のころに楓湖の門に入り、翠岳の号を称すとともに服部波山に漢画を学ぶ。楓湖の画塾では自由放任の教育方針であり、楓湖は狩野芳崖を極めて高く評価していて、門下には自身が教える以上のことを望む場合、芳崖の所へ行けと言ったほどであった。応真は師の勧めもあり、鑑画会の研究会へ出席して学んだ。明治15年(1882年)の第1回内国絵画共進会に作品を出品、賞を受けたことを筆頭に翌年、第1回パリ日本美術縦覧会に作品を出品した。また、明治17年(1884年)の第2回内国絵画共進会にも作品を出品、賞を得、明治19年(1886年)の第2回鑑画会では「芥子花図」が四等賞を得ている。その後、柴田是真に入門、応真の遺号を授かり、その才能を開花させて是真門下の四天王とも、池田泰真らとともに十哲とも呼ばれる活躍をする。明治20年代前半には日本美術協会において活躍するが、新しい日本画を模索する若手画家の潮流にのって明治24年(1891年)に日本青年絵画協会の結成に参加した。また、明治31年(1898年)の第5回絵画共進会、明治33年(1900年)のパリ万国博覧会にも作品を出品してそれぞれ受賞するなど、長期的な活躍がみられた。明治34年(1901年)7月12日に下根岸の自宅で食中毒により没し、東京下谷の谷中墓地に葬られた。享年46。
作品
編集- 「笹之雪書画帖」 牡丹図、草花の図を描く。
脚注
編集- ^ 『日本美術院百年史 一巻上』図版編は安政2年10月3日生まれとする。
参考文献
編集- 荒木矩編 『大日本書画名家大鑑』 第一書房、1975年
- 『近代日本美術事典』 講談社、1989年
- 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 一巻上』図版編 日本美術院、1989年