高樹生
高 樹生[1](こう じゅせい、472年 - 526年)は、北魏の懐朔鎮の鮮卑族武人。本貫は渤海郡蓨県。高歓の父にあたる。
生涯
編集高謐と叔孫氏(陳留郡君)のあいだの長男として生まれた。柔然が北魏に侵攻し、孝文帝が懐朔鎮将の陽平王元頤に命じて柔然を迎撃させると、樹生は元頤により仮の鎮遠将軍・都将に任じられ、先頭に立って戦って功績を挙げた。六鎮の乱が起こると、525年(孝昌元年)に大都督に任じられてその鎮圧にあたった。526年(孝昌2年)、55歳で死去した。532年(太昌元年)、使持節・都督冀相滄瀛殷定六州諸軍事・大将軍・太師・録尚書事・冀州刺史の位を追贈され、勃海王に追封された。諡は文穆といった。永熙年間、仮黄鉞・侍中・都督中外諸軍事の位を加贈された。550年(天保元年)に孫の高洋が北斉を建てると、文穆皇帝と追尊された。
人物・逸話
編集- 高い官位を望まず、賞与を辞退したため、高雅な人物として論じられた。
- 居宅にたびたび赤光紫気があらわれる怪異があったが、樹生は「転居したところで良いことはない」と言って平然としていた。
- 音楽を好み、竹に弦糸を張って自ら楽しんでいた。
妻子
編集妻
編集- 韓期姫(勃海国太妃、文穆皇后)
- 趙氏(高琛と高宝の母、趙猛の姉)
男子
編集女子
編集伝記史料
編集脚注
編集- ^ 『北斉書』は諱を「樹」とする。本記事では『魏書』『北史』の「樹生」を採用する。2005年に偃師市府店鎮で出土した墓誌も諱を「樹生」としている。