高木家 (男爵家)
高木家(たかぎけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。近世には薩摩藩士の家系だったが、近代に高木兼寛海軍軍医総監を出し、その勲功により華族の男爵家に列した[1]。
高木家 | |
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![]() 丸に三つ引き紋 | |
種別 |
武家 士族 華族(男爵) |
主な根拠地 | 東京市 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
歴史
編集高木兼寛の高木家は、慶長年間に薩摩島津氏に仕えるようになり、近世には代々薩摩藩士だった家である[1]。高木兼寛は、高木喜助(文政11年生、明治7年12月6日没)の子として日向国東諸県郡に生まれ、医学を学び、戊辰戦争では医師として官軍に仕え、その後藩立開成学校に入って医学校長となった[1]。
明治5年から海軍省に出仕し、海軍中軍医に任じられ、軍医の道を進む[1][2]。明治8年にイギリスのセント・トーマス病院医学校に留学[3]。大軍医、少医監、中医監、大医監と累進し、明治18年に海軍軍医総監に昇進[2]。またその間に東京海軍病院長、海軍省医務局長、海軍軍医本部長などを歴任[2]。明治25年に予備役入りするとともに貴族院の勅選議員に勅選された[2][4]。東京慈恵会医学専門学校(大正10年に医科大学に昇格)の創立者でもある[1]。
『授爵録』(明治34年~38年)には年月日不記載の海軍省からのものと思われる高木兼寛の授爵を請願する書類が添付されており、高木が現役時代に海軍軍医として脚気対策に尽力したこと、貴族院勅選議員として衛生行政に尽力したことを挙げて授爵を請願している。明治38年3月1日付けの宮内省の審査書類はその請願を認め、多年の功により同人に授爵あるよう裁可を仰ぐことを決定している。即日裁可があり、同月3日付けで兼寛は華族の男爵位を与えられた[2]。
大正9年4月13日に兼寛が死去した後、長男の喜寛が爵位と家督を相続。喜寛もイギリスのセント・トーマス病院医学校に留学し、医学博士号を持つ医学者であり、慈恵会医科大学長を務めるとともに貴族院の男爵議員にも当選して務めた[1][5]。昭和前期に高木男爵家の住居は東京市麻布区東鳥居坂町にあった[4]。
系図
編集- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』[1]に準拠。
高木喜助 | |||||||||||||||||||||||||||||
兼寛 | |||||||||||||||||||||||||||||
喜寛 | 兼二 | 舜三 | |||||||||||||||||||||||||||
秀寛 | 園子[† 1] | 兼光 | 美代[† 2] | ||||||||||||||||||||||||||
公寛 | 弓[† 3] | 彦二 | |||||||||||||||||||||||||||
正寛 | 直彦 | ||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
編集脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。