高 智耀(こう ちよう、1206年 - 1271年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人儒学者

概要

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出自

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高智耀の家系は代々西夏国に仕えてきた名家で、中興路に居住していた。高智耀の曾祖父の高逸は蕃科(西夏文字を用いる科挙)で第一位となり、祖父の高良恵は大都督府の長となり、父は中書右丞相となるなど、高家は代々大臣を輩出する名家であった。高智耀もまた科挙を経て西夏国に仕えるようになったが、ほどなくしてモンゴル帝国の侵攻によって西夏国は滅亡したため、高智耀は賀蘭山に隠棲するようになった[史料1 1]。ただし、賀蘭山は西夏国の首都の興慶のすぐ近くであり、隠棲中もモンゴル帝国から民政官として派遣されていた斡札簀と懇意にするなど、人里離れた場所で俗世との交流を断っていたわけではなかった[1]

オゴデイの治世

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1229年にオゴデイが第2代モンゴル帝国皇帝として即位すると、オゴデイは旧西夏国の人材を探し求めたため、高智耀は周囲から推挙されてオゴデイの側近くに仕えるようになった。オゴデイに仕えるようになってすぐ、1229年中に高智耀は旧西夏国の声楽を取り入れるよう進言し、この進言はオゴデイによって採用された[史料2 1][注釈 1]。しかし、高智耀は宮仕えを厭ったため、ほどなくして再び隠棲生活に入った[史料2 2][史料1 2]

一方、1235年クリルタイによって、モンゴル帝国ではバトゥを主将とする西方(ルーシ・東欧)遠征とクチュを主将とする東方(南宋)遠征が決定され、その一環としてオゴデイの次男のコデンが旧西夏領を与えられて南宋侵攻の右翼軍を務めることになった。また、同年の第2回クリルタイでは駅伝制度(ジャムチ)の整備も決定され、旧西夏領ではコデンの指揮の下儒学者までもが駅伝制度整備に徴発されるようになった[2]。このような儒学者に対する徴発を停止してほしいとの人々の依頼を受け、高智耀は直接コデンに陳情することにした。この頃、コデンは笙を木上にかけて「これを上手く吹くことができれば大いに賞賛せん」と述べて優れた吹き手を募っていた。コデンへの陳情の方法に苦慮していた高智耀はこの募集に応じ、優れた演奏を行ってコデンを喜ばせた。そこで高智耀は自らの家が代々儒学を収めていること、そのため自らも音楽に通じ楽士を複数召し抱えていることを述べ、自らの楽士をコデンに献上することを提案した。その上で、高智耀は儒学者の徴発をやめるよう陳情し、高智耀の提案に喜んだコデンはこの陳情を受け入れた。後に楽士をつれてきた高智耀に対し、コデンは官職を授けようとしたが、高智耀はやはり辞退して褒美を受け取って帰郷したという[史料2 3][史料1 3]

モンケの治世

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オゴデイの死後、第3代皇帝グユクの短い治世を経て第4代皇帝モンケが即位すると、高智耀は儒人免疫の再認可のためにカラコルムの新帝モンケの下を訪れた。モンケとの対面を許された高智耀は儒学の有用性を力説したため、高智耀の言を受け入れたモンケによって旧西夏領のみならず、旧金朝領においても儒人免役が許可された[史料2 4][史料1 4][注釈 2]。また、この頃にはモンケの弟のクビライが南宋遠征の主将として起用されており、高智耀はクビライとも交流を持つようになった。1253年には当時コデンの子のモンゲトゥの庇護下にあったチベット仏教サキャ派パスパとクビライの仲立ちを行い、両者の会見を実現した。この際、高智耀も儒学の有用性をクビライに説いたため、クビライも高智耀を召し抱えようとしたという[史料1 5]

クビライの治世

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モンケの死後、クビライの治世が始まると、高智羅は計音を与えられて漢地・河西の儒士全てを統括する地位を授与された[注釈 3]。儒者の統括を任された高智耀は駅奴となっていた儒者の救済などを行ったが、その一方で高智耀は儒者とは言えない者まで儒士に登録し、その数は3〜4000 人に及んだ。この件で クビライに呼び出され詰問を受けた高智耀は「金にも様々な品質のものがあって一概に『これは金ではない』と言えないように、多様な人材がいる儒士の一部を指して『この者は儒士ではない』と言うことはできません」と語ってクビライの追求を免れたという[史料1 6][史料2 5][注釈 4]。これらの出来事は1261年(中統2年)から1264年(中統5年)にかけて、すなわちクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が行われていた真っ只中のことであり、旧西夏領はクビライ派の左翼軍(カダアンら)とアリクブケ派の右翼軍(アラムダールクンドゥカイら)がぶつかる主戦場となっていた。この時高智耀に大きな権限が与えられ、なおかつその極端な振る舞いが概ね認められていたのは、旧西夏領に大きな影響力を有する高智耀を懐柔し内戦を有利に運ぶという意図があったためと考えられている[4]

1267年(至元4年)、高智耀はクビライに中国には御史台という監察機関があったことを紹介し、是非モンゴルにもこれを導入すべきであると上奏した。これを受けて、1268年(至元5年)には御史台が設立され、このような設立経緯故に高智耀の子孫は代々御史台系列の官職に進むようになる[史料2 6][史料1 7]。その後、権臣アフマド・ファナーカティーの一派によって儒士の徭役免除を撤廃しようとする計画が立てられると、高智耀は孟嘗君が多数の食客を養っていた故事を引いて儒士を保護すれば国の統治にいずれ役立つであろうことを説いてクビライを説得し、高智耀の説得を受け容れてクビライはアフマドらの献策を却下した[史料1 8][注釈 5]

1270年(至元7年)頃、高智耀はクビライの命によって西夏中興等路の提刑按察使とされた。しかし、高智耀は旧西夏国領で横行する仏教僧の不法行為を積極的に取り締まらず、その振る舞いを助長させたため、弾劾を受けて提刑按察使の地位を解任されてしまった[史料1 9][注釈 6]。『元史』世祖本紀によると、高智耀らの取り締まりは1270年(至元7年)3月に尚書省より提案され[史料2 7]、同年11月には「西夏提刑按察司・管民官(高智耀ら)」に無統制状態にあった仏教僧の取り締まりが正式に命じられた[史料2 8]1271年(至元8年)3月には以上の経緯を受けて新たに「西夏中興等路行尚書省」が設置され、戸口条画を定めた[史料2 9]。また、同年(至元8年=辛未=ヒツジ年)には高智耀に対して「ヒツジ年の聖旨(ジャルリグ)」がクビライより発令され、この聖旨は高智耀自身にとってはさほど大きな意味を持たなかったものの、モンゴルによって征服された後の旧南宋領では儒士保護の法的根拠として重要視されるようになる[7]

1276年シリギらトゥルイ系諸王はアルマリクで反乱を起こしてクビライの三男のノムガンを捉え、使者をクビライの下に派遣してその正当性を糾弾した(シリギの乱)。これに対し、クビライはシリギらのもとに派遣する使者として高智耀を選んだ[史料2 10]。高智耀は志願してこの任務についたとされるが、実際には前述の失態・解任を挽回する意図があったと考えられている[4]。しかし、その途上で高智耀は66歳にして病死し、クビライよりその死に哀悼の意を示したという[史料1 10]

高智耀の死後は同じく西夏出身の梁氏との間に生まれた高睿が後を継いだ[史料2 11]

脚注

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注釈

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  1. ^ なお、曲阜孔元措の上奏によって旧金朝の礼楽の保持が認められるのがオゴデイの即位10年目(1238年)のことであり、高智耀はこれに10年近く先行していた[2]
  2. ^ これは1252年の壬午年籍で儒戸は別籍とされたことに対応する。ただし、杉山正明はこの頃曲阜の孔元措も儒人保護のための活動をしていたはずであり、 この漢地における儒人免役の功績を全て高智耀によるものとすることには注意を要する、と指摘している[2]
  3. ^ モンゴル定刻は宗教を一種の政治団体として扱い、その第一人者に公印を付与して当該宗教の所属社を取り仕切らせる政策をとっていた。 同時代では仏教の海雲、道教李志常などがこれにあたる[3]
  4. ^ 杉山正明は高智羅の度を超した儒士認定は単純に儒士の救済を目指したものというだけでなく、高智羅自身の勢力拡大を目指したものであり、そのために高智羅はクビライに対し詭弁めいた返答をしたのだろう、とする[4]
  5. ^ このアフマド一派の計画を阻止した一件は『廟学典礼』にのみ見られる記述で、何故か『元史』高智耀伝など他の史料には見られない[5]
  6. ^ なお、この弾劾状は『烏台筆補』中に「西夏中興路按察使高智耀不当状」という題で記録されており(『秋澗文集』巻86所収)、杉山正明が読み下しと解説を行っている[6]

史料1(『廟学典礼』)

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  1. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「高学士、諱智耀、字顕道、河西中興路人也。世為西夏顕族。曾祖某擢蕃科第一、祖某仕至大都督府尹、父某仕至中書右丞相。夏設蕃漢二科以取士。蕃科経賦与漢等、特文字異耳。公巍然擢第授僉判、未及大用、天兵西役、夏人挙国帰附。公隠処賀蘭山」
  2. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「哈干皇帝嘗問西夏故大臣家有賢子孫在者否、以公対。召見、上存撫留公左右。公性楽恬退、未幾復帰旧隠」
  3. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「時庫徳太子鎮西涼、令民間立伝置士亦与焉。衆請於公、遂乗駅走千里詣藩府。進見難遽陳儒者事。適太子懸一笙於木上、募有能吹響者大賞之。公応募而前、太子大悦。公曰『本家世業儒、粗知音楽。兵燼之餘、某家楽工、尚多存者』。因公乗駅往取之。公遂言『西州多士、昔皆給復。今置伝与編氓等、乞与蠲免』、太子従之。公奉旨帰取楽工、復往西涼。太子喜欲官之、公不就、受重賞而帰」
  4. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「久之、蒙克皇帝即位、公復以儒人差役事北上奏陳、『儒者之所能、三綱五常治国平天下。自古以来用之則治、不可一日無者。故有国家蠲其徭役以養成之』。因備陳堯・舜・禹・湯・文・武・周公・孔子之道有補於世、非区区技術者所能万一。上曰『有是乎、此至美之事也。前未有与朕言者』。遂詔漢地・河西儒戸徭役悉除之無所与」
  5. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「色辰皇帝居潜藩、公因帕克巴国師進見、首論仏教。帝大悦、公曰『釈教固美矣、至於治天下、則有儒者之道』、又反覆論其所以然者。帝甚異之、有用公意」
  6. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「及即位刻符印付公。凡漢北・河西儒戸悉委公鎮之、従公給文以為験。時漢北・淮蜀儒人、多為駆者。公奏曰『以儒為駆、古無是也。帝方以古道治天下、宜除之』。上可其奏、命公奉旨以行。前後得釈為民者、幾三四千人、以此忤権勢。或愬於上曰『高秀才所釈者、多非儒也』。上詰公、公対曰『譬之於金、也有浅深。謂之非金不可。儒者学問亦有高下、謂之非儒亦不可』。上為之釈然」
  7. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「時庶事草創、綱紀未張。公奏曰『前代有御史台、為天子耳目。所以粛官常、整治具。誠不可闕』。上命宰臣記其事。越明年、命立御史台、実用公議」
  8. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「久之、有権臣欲令儒戸与民給徭役者。公奏曰『昔孟嘗君一列国陪臣耳、尚養士三千人、至今多之。今陛下富有、四海皆為臣妾、儒在其中万分一耳、除之何補於政。然使之安意講習、幼学壮行、為治理助、其効不亦多乎。陛下何惜此而不為也』。上以為然、権臣之議、遂格」
  9. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「未幾、上命公為西夏中興等路提刑按察使。公以廉価勤自将処事。公允有僧違戒律撓官法者、有司莫敢誰何、公遣駅奏之。奉旨詰治不少貸、境内為之粛然。其直而不撓、類如此。解任入覲」
  10. ^ 『廟学典礼』巻1秀才免差発,「上方択人将命北行者、公毅然請行。上問公方略如何、公一一為上陳之、大称上意。比行以病終、上甚哀悼之。公年六十有六。娶西夏駙馬梁氏女、子長寿仕至僉江淮等処行枢密院事。睿今為江南浙西道粛政廉訪使」

史料2(『元史』)

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  1. ^ 『元史』巻68志19礼楽2,「太祖(太宗の誤り)初年、以河西高智耀言、徴用西夏旧楽。太宗十年十一月、宣聖五十一代孫衍聖公元措来朝、言於帝曰『今礼楽散失、燕京・南京等処、亡金太常故臣及礼冊・楽器多存者、乞降旨收録』。於是降旨、令各処管民官、如有亡金知礼楽旧人、可並其家属徙赴東平、令元措領之、於本路税課所給其食」
  2. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「高智耀、河西人、世仕夏国。曾祖逸、大都督府尹。祖良恵、右丞相。智耀登本国進士第、夏亡、隠賀蘭山。太宗訪求河西故家子孫之賢者、衆以智耀対、召見将用之、遽辞帰」
  3. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「皇子闊端鎮西涼、儒者皆隷役、智耀謁藩邸、言儒者給復已久、一旦与豢養同役、非便、請除之。皇子従其言。欲奏官之、不就」
  4. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「憲宗即位、智耀入見、言『儒者所学堯・舜・禹・湯・文・武之道、自古有国家者、用之則治、不用則否、養成其材、将以資其用也。宜蠲免徭役以教育之』。帝問『儒家何如巫医』。対曰『儒以綱常治天下、豈方技所得比』。帝曰『善。前此未有以是告朕者』。詔復海内儒士徭役、無有所与」
  5. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「世祖在潜邸已聞其賢、及即位、召見、又力言儒術有補治道、反覆辯論、辞累千百。帝異其言、鑄印授之、命凡免役儒戸、皆従之給公文為左験。時淮・蜀士遭俘虜者、皆没為奴、智耀奏言『以儒為駆、古無有也。陛下方以古道為治、宜除之、以風厲天下』。帝然之、即拝翰林学士、命循行郡県区別之、得数千人。貴臣或言其詭濫、帝詰之、対曰『士、譬則金也、金色有浅深、謂之非金不可、才芸有浅深、謂之非士亦不可』。帝悦、更寵賚之」
  6. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「智耀又言『国初庶政草創、綱紀未張、宜倣前代、置御史台以糾粛官常』。至元五年立御史台、用其議也」
  7. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「三月庚子朔……尚書省臣言『河西和糴、応僧人・豪官・富民一例行之』。制可」
  8. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元7年11月]癸未、詔諭西夏提刑按察司管民官、禁僧徒冒拠民田」
  9. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元8年3月]己丑、立西夏中興等路行尚書省、以趁海参知行尚書省事。命尚書省閲実天下戸口、頒条画、諭天下」
  10. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「擢西夏中興等路提刑按察使。会西北藩王遣使入朝、謂『本朝旧俗与漢法異、今留漢地、建都邑城郭、儀文制度、遵用漢法、其故何如』。帝求報聘之使以析其問、智耀入見、請行、帝問所答、画一敷対、称旨、即日遣就道。至上京、病卒、帝為之震悼。後贈崇文賛治功臣・金紫光禄大夫・司徒・柱国、追封寧国公、諡文忠」
  11. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「子睿。睿、資稟直亮、智耀之北使也、携之以行。及卒、帝問其子安在、近臣以睿見、時年十六。授符宝郎、出入禁闥、恭謹詳雅。久之、授唐兀衛指揮副使、歴翰林待制・礼部侍郎。除嘉興路総管、境内有宿盗、白晝掠民財、捕者積十数輩莫敢近。睿下令、不旬日、生擒之、一郡以寧。擢江東道提刑按察使、部内草窃陸梁、声言圍宣城、郡将怯懦、城門不開、睿召責之曰『寇勢方熾、官先示弱、民何所憑』。即命密治兵衛、而洞開城門、聴民出入貿易自便。既而寇以有備、不敢進、遂討平之。除同僉行枢密院事、遷浙西道粛政廉訪使。塩官州民、有連結党与、持郡邑短長、其目曰十老、吏莫敢問、睿悉按以法、闔境快之。拝江南行台侍御史、進御史中丞、除淮東道粛政廉訪使。盜竊真州庫鈔三万緡、有司大索、追逮平民数百人、吏因為奸利、睿躬自詳讞而得其情、即縦遣之。未幾、果得真盗。復拝南台御史中丞、務持大体、有儒者之風焉。延祐元年卒、年六十有六。累贈推忠佐理功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国、追封寧国公、諡貞簡。子納麟、官至太尉・江南諸道行御史台大夫」

出典

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  1. ^ 杉山2004,498頁
  2. ^ a b c 杉山2004,499頁
  3. ^ 杉山2004,500頁
  4. ^ a b c 杉山2004,500-501頁
  5. ^ 杉山2004,501-502頁
  6. ^ 杉山2004,502-503頁
  7. ^ 杉山2004,490-495頁

参考文献

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  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻122列伝9