高 昇泰(こう しょうたい)は、大中国の皇帝。

表正帝 高昇泰
大中
皇帝
王朝 大中
在位期間 1094年 - 1095年
都城 羊苴咩城
姓・諱 高昇泰
諡号 富有聖徳表正皇帝
生年 不詳
没年 上治元年(1095年
高智昇中国語版
年号 上治 : 1095年

生涯

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岳侯高方の末裔で、点蒼山中国語版蓮花峰の麓に位置した芒湧渓の出身とされる。大理清平官中国語版の位にあったが、広安4年(1080年)に上徳帝楊義貞中国語版に殺害されると、高昇泰は父の高智昇中国語版の命を受けて、東方の兵を率いて楊義貞を攻め滅ぼし、上徳帝の甥の段寿輝を皇帝に立てた(上明帝)。上明元年(1081年)、鄯闡侯に封じられた。父と共に上明帝に出家を迫って段正明に譲位させた[1](保定帝)。天祐4年(1094年)、専権を振るっていた高昇泰は保定帝を廃して自ら即位し[1]、国号を大中とした[2]。即位した高昇泰は弟の高昇祥中国語版鄯闡府に、幼少の子である高泰賢を永昌府、高泰運を騰衝府、高泰慧を鄯巨府に、それぞれ分封した。1095年上治と改元したが、同年の内に病に倒れ、雲南の諸部族の大中への反対に鑑みて、子の高泰明中国語版に対して段氏に王位を返還するように遺言して世を去った[2]。高泰明は保定帝の弟の段正淳を皇帝に擁立し(文安帝)、大中国から復した後の大理は後理とも呼ばれ[2]、代々高氏を宰相としたが実権は高氏にあり[2]、国人は「高国主」と称した。

脚注

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出典

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  1. ^ a b 『滇略』巻七 事略
  2. ^ a b c d 『中華民族小史』第九章 珠江上流之同化 第二節 南詔大理之建国
先代
保定帝
(大理皇帝)
大中の皇帝
1094年 - 1095年
次代
文安帝
(大理皇帝)