高師冬

日本の南北朝時代の武将、守護大名

高 師冬(こう の もろふゆ、生年不明 - 正平6年/観応2年1月17日1351年2月13日))は、南北朝時代武将守護大名

 
高 師冬
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 観応2年/正平6年1月17日1351年2月13日
官位 播磨守、三河
幕府 室町幕府 関東執事武蔵伊賀守護
主君 足利尊氏
氏族 高階氏(略記:高氏
父母 父:高師行
養父:高師直
兄弟 師冬師秋三戸師澄
明阿高師泰の娘)
猶子:師親(弟・師澄の子)
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高師行の子で、従兄弟にあたる高師直猶子関東執事として関東の南朝方を鎮圧する功績を挙げたが、観応の擾乱で劣勢に立たされ自害した。

略歴

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師直と同じく足利尊氏に仕えた。史料上の初見は建武3年(1336年)6月で、山城国西坂本の戦いに参加している[1]延元3年/暦応元年(1338年)、南朝方の北畠顕家が京を目指して進軍してくると、大将である養父師直と共に各地を転戦し、顕家打倒に貢献した[2]

延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。

正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男基氏鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国須沢城山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、直義派の上杉憲将諏訪直頼の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。

参考文献

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  • 亀田俊和『高一族と南北朝内乱 室町幕府草創の立役者』戎光祥出版〈中世武士選書 32〉、2016年。ISBN 978-4-86403-190-5 

脚注

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  1. ^ 天野文書および肥後小代文書
  2. ^ 亀田 2015, 第三章 関東で活躍した高師冬.

関連項目

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