孝謙朝の天平勝宝8歳12月(756年12月 - 757年1月)、大和国高市郡擬大領、従七位上として、東大寺領飛騨坂所公験に署名がある[1]。
その後、しばらく記録が途絶えるが、光仁朝の宝亀6年(775年)正月、正六位上から外従五位下に叙せられる[2]。宝亀7年(776年)3月に西市正になるが[3]、数日もしないうちに長背広足と官職を交換するかのように、園池正に就任している[4]。
注記のないものは『続日本紀』による。
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