高山保次郎(たかやま やすじろう、1838年 - 1907年11月3日)は、幕末-明治期の神官歌人。 本姓は里井、名は慶孝、号は苞居[1]

人物

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1838年天保9年)、和泉泉南郡南中通村(現・大阪府泉佐野市)、里井孝幹の二男として生まれる。幼名は寬三郞。

里井家は代々好学で、幼少より学を好み、家翁の教授を受け、15歳のとき堺市九間町の高山家の養子となり家督を継ぎ、名を保次郎と改める。

父の没後は岩崎長世国学をまなび、大阪枚岡神社に出仕、歌会始の撰者に加わる。また堺の区長などをつとめる。

長世の没後は尾崎正明、渡辺重春らと交り歌道に専心する。

1907年(明治40年)、70歳で死去。没後に『苞居歌集』が刊行された。

参考文献

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  • 堺市史第七巻』(1930年 清文堂出版)第一編 人物誌 第四章 整頓期(四五)

脚注

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関連項目

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