高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年3月16日[1] - 平成元年(1989年6月12日)は、日本神道学者神職八坂神社名誉宮司皇學館大学学長

高原 美忠
人物情報
生誕 (1892-03-16) 1892年3月16日
日本の旗 日本岡山県岡山市
死没 (1989-06-12) 1989年6月12日(97歳没)
日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
出身校 神宮皇學館
学問
時代 大正昭和
研究分野 神道学
研究機関 皇學館大学
称号 長老
主要な作品 #著書
学会 藝林会
神道史学会
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略歴

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明治25年(1892年)3月16日、岡山県岡山市に喜三治・辰野の子として生まれる。明治44年(1911年)岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校卒業大正5年(1916年神宮皇學館本科卒業。

和歌山県立農林学校(現在の和歌山県立南部高等学校教諭、神戸市神港商業学校(現在の神戸市立神港高等学校)教諭を経て、大正12年(1923年)より日光東照宮禰宜。翌年、白山比咩神社宮司昭和8年(1933年函館八幡宮宮司、昭和11年(1936年弥彦神社宮司。昭和13年(1938年)八坂神社宮司になると、昭和51年(1976年)までその職にあり(ただし、官国幣社職制廃止にともなって昭和21年(1946年)2月より6月まで退職)、退職後に名誉宮司となった。神社本庁理事京都府神社庁庁長なども歴任し、昭和42年(1967年)、神社本庁から長老の称号を授かる。

昭和36年(1961年)、皇學館大學再興にあたっては設立準備委員会の委員長となり、再興されると同大學理事、また講師として「祝詞作文」の科目を担当。昭和41年(1966年)、皇學館大學学長に就任。昭和48年(1973年)までつとめた。昭和47年(1972年)勲三等瑞宝章受章。

業績

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神職として奉仕するばかりでなく神道学学者として学問にも貢献、白山比咩神社時代に『白山比咩神社叢書』全7冊の編纂、函館八幡宮時代に『函館戦争資料』、弥彦神社時代に『弥彦叢書』第一輯、八坂神社につとめて間もなく『八坂神社記録』『八坂神社文書』など刊行した。戦前は昭和6年(1931年)神宮皇學館普通科教諭、昭和13年(1938年)京都國學院講師など委嘱され、戦後は藝林会の発起人および代表者、また神道史学会の設立に中心的役割を果たした。

家族

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5人の子をもうけ、二男の重石が神職を継いだ。三男の北雄工学博士名古屋大学教授・航空宇宙技術研究所部長などをつとめた航空宇宙学の第一人者。

著書

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  • 『日本家庭祭祀』 増進堂、1944年
  • 『神ながらの道』 神道史学会、1969年
  • 『八坂神社』 学生社<日本の神社シリーズ> 1972年
  • 『家のまつり』 神社新報社 1974年

脚注

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  1. ^ 『現代物故者事典 1988~1990』(日外アソシエーツ、1993年)p.374