千家典子
千家 典子(せんげ のりこ、1988年〈昭和63年〉7月22日 - )は、日本の元皇族。出雲大社権宮司・千家国麿の妻。勲等は宝冠牡丹章。
千家 典子 (典子女王) | |
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出雲国造家(千家家) | |
続柄 | 高円宮憲仁親王第2女子 |
全名 | 千家 典子(せんげ のりこ) |
身位 | 女王→(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下→(皇籍離脱) |
お印 | 蘭 |
出生 |
1988年7月22日(36歳) 日本 ・東京都港区 愛育病院 |
配偶者 | 千家国麿(2014年 - ) |
子女 | なし |
父親 | 高円宮憲仁親王 |
母親 | 憲仁親王妃久子 |
栄典 |
宝冠牡丹章 |
皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。旧名、典子女王(のりこじょおう)。お印は蘭(らん)であった。
高円宮憲仁親王と同妃久子の第2女子[1]。大正天皇の曽孫、徳仁(第126代天皇)の再従妹にあたる。姉に承子女王、妹に守谷絢子(絢子女王)がいる。学位は学士(心理学)。
略歴
生い立ち
高円宮憲仁親王と同妃久子の第2子(次女)として、1988年(昭和63年)7月22日に祖母の崇仁親王妃百合子が総裁を務める社会福祉法人恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター愛育病院にて誕生した[2]。名は父・憲仁親王が選び、お印は母・久子妃が選んだ。
松濤幼稚園に通い、学習院初等科、女子中等科を経て、2007年(平成19年)3月に学習院女子高等科を卒業した。同年4月に学習院大学文学部心理学科に入学した。大学では臨床心理学等を学んだ。この間、女子中等科在学中の2002年(平成14年)10月、父・高円宮憲仁親王と死別した。
2008年(平成20年)7月22日に成年を迎え、天皇明仁(当時)から宝冠牡丹章を賜った。その後、成年皇族として宮中祭祀や式典にも参列していた。
2011年(平成23年)3月20日に学習院大学文学部心理学科を卒業した。
結婚による皇籍離脱
2014年(平成26年)5月27日午前、出雲大社禰宜(当時)の千家国麿との婚約が内定したと宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管が記者会見で発表。同日午後には、宮内庁第一会議室で典子女王及び千家の記者会見が開かれた。同年7月4日、納采の儀が執り行われた。
同年10月2日午前、結婚を前に皇居の宮中三殿にて賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(かしこどころこうれいでんしんでんにえっするのぎ)が執り行われ、典子女王は小袿と袴におすべらかしの姿で皇室の先祖と神々に対し結婚と皇籍を離れる旨を報告した。同日午後には、宮殿で天皇・皇后に感謝の言葉を伝える朝見の儀に臨んだ[3]。
10月5日午前7時半ごろ、前日に出雲市に入った典子女王を、宿泊先へ国麿の叔父が使者として迎えに行く入第の儀(じゅだいのぎ)が行われ、続いて午前11時ごろより、夫となる千家の所属する出雲大社にて結婚式が行われた。出雲大社参道で、典子女王は黄色地に紅の向鸚鵡丸文と萌黄の植物文を散らした袿に紫色の袴、国麿は黒の衣冠を身に付け、そのあとに両者の親族である黒留袖の母久子妃、振袖の承子女王、絢子女王に続いて夫の国麿の両親らが続いて歩き拝殿へ向かった。その後、典子女王が赤い小袿と紫色の長袴に着替え、国麿に続いて拝殿内に入った。なお、この儀式にて着用された小袿は典子女王の祖母である崇仁親王妃百合子が義母の貞明皇后(大正天皇の皇后)から受け継いだもの、長袴は貞明皇后から受け継いだ生地で新たに作られたものと発表されている[注釈 1]。儀式は同日正午までに終了した。式後、婚姻届が代理人により出雲市役所大社支所に提出、受理され、皇族の身分を離れ[4]、以後の名は民間人の「千家 典子(せんげ のりこ)」となった[5]。
披露宴は、同月6日に松江市のホテル一畑で地元関係者向け、8日に東京都内のホテルで皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)を主賓に三権の長らを招いて行われた[6]。
結婚にあたっては、法に定められた規定により、国から一時金として1億675万円が典子女王に支給された[6]。また、この金額は法定上限額である。結婚後、出雲大社宮司の妻を「姫君様」と呼ぶ習慣に伴い、国麿の妻として大社職員らに「若姫君様」と呼ばれ、祭祀や行事の準備などの指示を学ぶことになる[6]。
系譜
千家典子 | 父: 憲仁親王(高円宮) |
祖父: 崇仁親王(三笠宮) |
曾祖父: 大正天皇 |
曾祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 百合子 |
曾祖父: 高木正得 | ||
曾祖母: 高木邦子 | |||
母: 久子 |
祖父: 鳥取滋治郎 |
曾祖父: 鳥取為三郎[8] | |
曾祖母: 鳥取久壽[8][9] | |||
祖母: 鳥取二三子 |
曾祖父: 友田二郎 | ||
曾祖母: 友田盛子 |
脚注
注釈
出典
- ^ “高円宮家”. 宮内庁. 2022年11月24日閲覧。
- ^ 1988年(昭和63年)7月23日宮内庁告示第4号「憲仁親王妃久子殿下は、愛育病院において御出産、女王が御誕生になつた件」
1988年(昭和63年)7月29日宮内庁告示第5号「御誕生になつた憲仁親王殿下の第二女子は、御名を典子と御命名になつた件」 - ^ “典子さま「朝見の儀」に 両陛下に最後のあいさつ”. テレ朝news (2014年10月2日). 2022年11月23日閲覧。
- ^ 2014年(平成26年)10月5日宮内庁告示第12号「典子女王殿下が結婚のため皇族の身分を離れられる件」
- ^ この段落の出典。“典子さま、千家さんと結婚 出雲大社で”. 日本経済新聞. (2014年10月5日) 2014年10月5日閲覧。
- ^ a b c “典子さまご結婚 女王殿下から宮司を支える妻「姫君様」への道”. サンケイスポーツ. (2014年10月6日) 2016年2月7日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2023年7月19日). “鳥取二三子さん死去を発表 高円宮妃久子さまの母、28日葬儀・告別式”. 産経ニュース. 2023年8月2日閲覧。
- ^ a b 『大衆人事録. 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』香川五
- ^ 或は久嘉 『人事興信録. 第11版』(昭和12年)下ト一〇一