駱 賓王(らく ひんおう、640年 - 684年?)は、中国代初期の詩人[1]王勃楊炯盧照鄰とともに「初唐の四傑」と称せられる[2]

駱賓王・『晩笑堂竹荘畫傳』より

略伝

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婺州義烏県(現在の浙江省金華市義烏市)の出身。生まれついて貧しかったので早々に落魄(らくはく)し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直[3]高宗弘道元年(683年)に長安主簿となり、ついで武后統治の時に数々の上疏をしたが臨海郡の丞[4]に左遷される。出世の望みを失い、官職を棄てて去った。

684年徐敬業中国語版が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文[5]を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。武后はその檄を手に入れて読ませ「蛾眉 敢えて人に譲らず 狐媚 偏えに能く主を惑わす」のあたりでは笑っていたが「一抔土未乾、六尺孤安在(一抔の土 未だ乾かざるに、六尺の孤、安(いず)くにか在る。)」の句にいたり愕然としてその作者の名を問い、駱賓王であることを知ると「このような才ある者を流落不遇にしたのは宰相の過ちである」と言ったという。

敬業の乱が平定された後は、亡命して行方が知れなくなった[1][6]。また銭塘霊隠寺に住んでいたという伝説[7]もあり、「霊隠寺」と題する詩もある。

詩文

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7歳から良く詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。ことにその「帝京篇」は古今の絶唱とされる[8]。好んで数字を用いて対句をつくるので「算博士」の俗称がある。武后は駱賓王の文を重んじ、詔してその文章の数百編を集めて郗雲卿に命じ編纂させたのが、『駱丞集』4巻である[9]それに頌・賦・五七言古・五律・排律・絶句・七言絶句・啓・書・叙・雑著の11項目に分かれて、作品が収められている。

松枝茂夫は『中国名詩選』で駱賓王の代表作として『易水送別』を選んでいる[1]

易水送別
此地別燕丹 此の地 燕丹に別る
壯士髮衝冠 壮士 髪 冠を衝く
昔時人已没 昔時 人 已に没し
今日水猶寒 今日 水 猶ほ寒し

  ウィキクォートには、駱賓王に関する引用句があります。

注・出典

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  1. ^ a b c 松枝茂夫 編 『中国名詩選』中 1984年 岩波文庫 ISBN 978-4003203323 p.214 。
  2. ^ 新唐書 卷二百零一 列傳第一百二十六 文藝上』 王勃 の条 弟助の記事終結部に、《勃與楊炯、盧照鄰、駱賓王皆以文章斉名、天下稱「王、楊、盧、駱」四傑。》とあり、附として各人の略歴が述べられている。  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷201
  3. ^ 旧唐書 卷一百九十上 列傳第一百四十上:文苑上』 駱賓王の条に、「嘗作「帝京篇」、當時以為絶唱。然落魄無行、好與博徒遊。」とある。出典:種村由季子(九州大学大学院) 『駱賓王「帝京篇」と則天武后の洛陽駐輦(ちゅうひつ)』 2012年 日本中国学会報 Vol. No. 64、p.74 。  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:舊唐書/卷190上
  4. ^ 補佐官。
  5. ^ 「徐敬業に武曌(『照』の則天文字)を討つを為さしめん檄」  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:為徐敬業討武曌檄
  6. ^ 一説には誅殺されたともされるが典拠不明。
  7. ^ 康熙年間に墨浪子(ぼくろうし、本作では古呉墨浪子と称す)によって編纂刊行された、西湖をめぐる短編小説集 《西湖佳話》(せいこかわ)全16話の第4話に収録されている『霊隠詩蹟』(れいいんしせき)は、駱賓王の行方が知れなくなった後を描く説話である。日本語訳は内田道夫(うちだみちお、1916-2000年。東北大学教授(1954-1972年)、文学博士) 訳 『霊隠の詩跡』がある。平凡社 中国古典文学大系 39 1969年 p.311-320、 ISBN 9784582312393
  8. ^ 種村由季子 『駱賓王「帝京篇」と則天武后の洛陽駐輦』(中国・アジア研究論文データベースpdf)に、全98句の訓読等がある。  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:帝京篇
  9. ^ 『旧唐書』は10巻とするが散逸し、明清本4巻が残存する。
    『舊唐書 卷一百九十上 列傳第一百四十上:文苑上』 駱賓王の条(最後から二人目)に「有兗州人郗雲卿集成十卷、盛傳於世。」とある。

参考

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  • 『新唐書』201文藝
  • 『旧唐書』190上文苑
  • 『唐才子伝』1
  • 『欽定四庫全書総目』146集部
  • 小杉放庵『唐詩及唐詩人』