香月清司
日本の軍人
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級[1]。
香月 清司 かつき きよし | |
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香月清司 | |
生誕 |
1881年10月6日 日本 佐賀県 |
死没 | 1950年1月29日(68歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903年 - 1938年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第1軍司令官 支那駐屯軍司令官 近衛師団長 第12師団長 |
戦闘 |
盧溝橋事件 日中戦争 |
経歴
編集佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。
第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部附を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された。
年譜
編集- 1902年(明治35年)11月22日 - 陸軍士官学校卒業
- 1912年(大正元年)11月25日 - 陸軍大学校卒業
- 1921年(大正10年)3月26日
- 1923年(大正12年) 8月6日 - 陸軍歩兵大佐[1]
- 1924年(大正13年)4月10日 - 歩兵第60連隊長[1]
- 1925年(大正14年)5月1日 - 歩兵第8連隊長[1]
- 1927年(昭和2年)7月26日 - 陸軍省軍務局兵務課長[1]
- 1929年(昭和4年)1月28日 - 陸軍少将・歩兵第30旅団長[1]
- 1930年(昭和5年)
- 1932年(昭和7年)4月11日 - 陸軍歩兵学校幹事兼教育部長[1]
- 1933年(昭和8年)3月18日 - 陸軍中将・陸軍歩兵学校長[1]
- 1935年(昭和10年)3月15日 - 第12師団長[1]
- 1936年(昭和11年)3月23日 - 近衛師団長[1]
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
栄典
編集関連項目
編集脚注
編集参考文献
編集- 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和10年9月1日調) 18頁
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。