香具波志神社(かぐはしじんじゃ)は、大阪市淀川区加島にある神社旧社格村社

香具波志神社
所在地 大阪市淀川区加島4丁目4-20
位置 北緯34度43分54.7秒 東経135度27分25.2秒 / 北緯34.731861度 東経135.457000度 / 34.731861; 135.457000 (香具波志神社)座標: 北緯34度43分54.7秒 東経135度27分25.2秒 / 北緯34.731861度 東経135.457000度 / 34.731861; 135.457000 (香具波志神社)
主祭神 倉稲魂神保食神天照皇大神
稚産靈神埴山姫神住吉大神
八幡大神
社格 村社
別名 ごんのかみ(通称)[注釈 1]
例祭 10月23日
地図
香具波志神社の位置(大阪市内)
香具波志神社
香具波志神社
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祭神

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歴史

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社名は孝徳天皇が当地に行幸され、「香ぐはし」と詠まれた句に依ると云われる。「加島神社旧記」によれば、天徳3年(959年)に倉稲魂神保食神を祀ったとあり、『摂津志』にも「稲荷神祠二座、一座在加島村」とある。かつて連歌殿があり、弘長年中には北条時頼が連歌田を寄進したという。また、『太平記』によると 正平6年(1351年)頃には、楠木正成の三男正儀は加島明神の森に駒をとめ、社前に祈願という記述がある。

天文18年(1549年)の江口の戦いで、三好長慶が戦勝祈願に大鳥居を寄進している。もと賀具波志大社と称し、後には加島神社・加島大明神とも称していたが織田信長の時に稲荷神社と改め、明治維新後は今の名に戻した。

万治元年(1658年)火災を罹り、文久2年(1862年)に社殿を再建する。明治5年(1872年)村社に列す。明治42年(1909年)、三津屋の三社八幡神社・御幣島の住吉神社、住吉講天神の天神社を合祀。翌明治43年(1910年)に天神社を合祀し、神饌幣帛料供進社に指定される。 昭和34年(1959年)には鎮座千年祭を挙行する。

境内

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秋成は藤氏の招きにより1774年(安永2年)から4年までこの地に居住した[2]。墓は秋成の没後3年目にあたる1811年(文化8年)3月に藤家孝が建てたものとされている[2]

現地情報

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所在地
交通アクセス
周辺

参考文献

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  • 井上正雄「大阪府全志」(1922)全国書誌番号:73012615
  • 三善貞司「大阪史蹟辞典」(1986)全国書誌番号:86050775

脚注

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注釈

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  1. ^ ごんのかみの由来は、社家である藤氏が慶長年間に吉田家より権頭を賜り称するようになった(慶長以前は太夫と称していた)ことから、次第に頭(かみ)と神が混同し神社の通称となったとされている[1]

出典

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外部リンク

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