饗庭塩
概要
編集三河湾沿岸の塩田による塩づくりは戦国時代までさかのぼる。その中でも饗庭の名を冠した饗庭塩は苦汁分が少なく良質とされた。 俗説では三河国幡豆郡吉良領饗庭を治めていた吉良義央が、当地において15ヘクタールの塩田を開発し、生産させたのがはじまりとされる[2]。しかし実際には、元禄14年以前に既に開発されていた幡豆郡の塩田は、甘縄藩松平領だった吉田村の本浜塩田と、幕府領であった富好外新田村の白浜塩田の二つのみで、いずれも吉良領でないことが指摘されている。吉良義央が塩田開発を行った説の初出は戦後とされ、現在では否定されている[3]。
1918年(大正8年)の記録には、塩田が140ヘクタール、770人の製塩従事者がいたとある[2]。1953年(昭和28年)9月の台風13号の被害により、枝条架式の製塩が行われるようになった[2]。1971年(昭和46年)に終焉を迎えた[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 村瀬正章「饗庭塩」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、75頁。