饒州(じょうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から初にかけて、現在の江西省上饒市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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553年承聖2年)、南朝梁により江州を分割して置かれた呉州を前身とする。呉州は鄱陽郡を管轄した。568年光大2年)、南朝陳により呉州は廃止され、鄱陽郡は江州に編入された[1]

隋代

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589年開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、鄱陽郡は廃止されて饒州が置かれた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、饒州は鄱陽郡と改称され、下部に3県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
江州 鄱陽郡
鄱陽郡 鄱陽県 余干県 弋陽県
鄱陽県 広晋県 銀城県
余干県 安仁県 上饒県
葛陽県

唐代

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621年武徳4年)、により鄱陽郡は饒州と改められた。742年天宝元年)、饒州は鄱陽郡と改称された。758年乾元元年)、鄱陽郡は饒州の称にもどされた。饒州は江南西道に属し、鄱陽・余干・楽平浮梁の4県を管轄した[3]

宋代

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のとき、饒州は江南東路に属し、鄱陽・余干・浮梁・楽平・徳興・安仁の6県を管轄した[4]

元代

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1277年至元14年)、元により饒州は饒州路総管府と改められた。饒州路は江浙等処行中書省に属し、録事司と鄱陽・徳興・安仁の3県と余干州浮梁州楽平州の3州を管轄した[5]1361年朱元璋により饒州路は鄱陽府と改められた。

明代以降

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1369年洪武2年)、により鄱陽府は饒州府と改称された。饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した[6]

のとき、饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した[7]

1913年中華民国により饒州府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 陳書』廃帝紀
  2. ^ 隋書』地理志下
  3. ^ 旧唐書』地理志三
  4. ^ 宋史』地理志四
  5. ^ 元史』地理志五
  6. ^ 明史』地理志四
  7. ^ 清史稿』地理志十三