飛沢栄三
高校野球指導者 (1903-1967)
飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日[1] - 1967年6月21日[1])は、北海道古平郡古平町[1][2][3]出身の高校野球指導者。
北海中学校・北海高等学校の野球部部長・監督を長く務め、「北海道高校野球の父」と呼ばれた[4][1]。
経歴
編集北海中学時代の1920年、第6回全国中等学校優勝野球大会に外野手として出場[1][2]。卒業後早稲田大学に進み、法律家を目指す傍ら母校北海中学のコーチを務めた[2][3]。卒業後は大蔵省志望だったが[1][2]、北海中学側の強い懇請により、1929年母校の教員となり[1][2]、同時に野球部の部長に就任[1][2][3]。
以来、緻密な野球をスローガンに[3]、戦前・戦後を通じ38年間部長の地位にあり(断続的に監督も兼任)[1][5]、春は8回、夏は18回甲子園に出場。準優勝・ベスト4が各1回、ベスト8が7回、国体優勝が1回などの実績を残した。厳しさの中にも人間味のある指導で、「おとうちゃん」の愛称で親しまれた[3]。また、群馬県立桐生高等学校の稲川東一郎監督とともに、名物監督として全国的に知られた[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 「北海学園120年の群像」 北海道21世紀タイムス(札幌タイムス)、2005年
- 長壁明「北の球児、闘いの記録~北海野球部百年物語」北海高等学校野球部史制作委員会、2009年