須田平野古墳
須田平野古墳(すだひらのこふん)は、京都府京丹後市久美浜町須田にある古墳。形状は円墳。須田古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。
須田平野古墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
所属 | 須田古墳群 |
所在地 | 京都府京丹後市久美浜町須田(字東側) |
位置 | 北緯35度33分43.63秒 東経134度55分9.10秒 / 北緯35.5621194度 東経134.9191944度座標: 北緯35度33分43.63秒 東経134度55分9.10秒 / 北緯35.5621194度 東経134.9191944度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径17m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
出土品 | 須恵器片 |
築造時期 | 6世紀後半 |
史跡 | なし |
地図 |
概要
編集京都府北部、川上谷川支流の伯耆谷川の南岸、徳良山から北に延びる尾根の先端部(標高75-80メートル)に築造された単独墳である。川上谷川流域の縁辺丘陵上では多数の古墳の分布が知られ、そのなかでも伯耆谷は本古墳や湯舟坂2号墳を代表に古墳約130基が特に集中して丹後地方最大規模の群集墳を形成する[1]。1968-1969年(昭和43-44年)・2022年度(令和4年度)に墳丘測量・石室実測調査が、2023年度(令和5年度)以降に発掘調査が実施されている。
墳形は円形で、直径約17メートルを測る[2](近年の発掘調査以前には方墳説・前方後円墳説も存在した[3])。墳丘下半は質の異なる土の互層によって構築される[2]。また墳丘周囲には周溝が巡らされ、周溝内および埋土からは須恵器片が検出されるほか、古墳南東の地点では須恵器の祭祀跡が認められる[2]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口する。湯舟坂2号墳とともに丹後地方では代表的な大型石室であり、石室の形態としては湯舟坂2号墳に先行する。古くから開口するため、石室内部の副葬品は詳らかでない。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定され、7世紀初頭頃までの祭祀の継続が認められる[2]。伯耆谷の群集墳のうちでは最も東側(下流側)かつ最も古い段階の築造と位置づけられ、その後に墓域は谷の奥側へと移動したと想定される[4]。丹後地方を代表する横穴式石室墳の1つであるとともに、伯耆谷群集墳の形成初期段階に築造された単独の首長墳として、群集墳の形成を考察するうえで重要視される古墳になる[4]。
遺跡歴
編集埋葬施設
編集埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南西方向に開口する。石室の規模は次の通り[4]。
- 石室全長:9.78メートル
- 玄室:長さ4.6メートル、幅1.96-2.36メートル
- 羨道:幅1.28メートル
石室の右袖(西袖)の平面規模は小さく、文献によっては左片袖式ともされる[5]。石室の大部分は埋まっており、元々の高さは明らかでない。
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
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墳丘南側(2023年度調査2トレンチ)
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墳丘北西側(2023年度調査3トレンチ)
脚注
編集- ^ 京都府の史跡・遺跡ハンドブック 第3集 2021.
- ^ a b c d e 2023年度調査現地説明会資料 2023.
- ^ a b c 京都府立大学文学部考古学研究室 2023.
- ^ a b c 京丹後市の考古資料 2010.
- ^ 久美浜町史 資料編 2004.
参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(京都府立大学文学部考古学研究室・京丹後市久美浜町須田区・京丹後市教育委員会、2022年設置)
- 京都府立大学発行
- 京都府立大学文学部考古学研究室「京丹後市須田平野古墳の調査(1)」『京都府立大学文学部歴史学科フィールド調査集報』第9号、京都府立大学文学部歴史学科、2023年3月30日、3-10頁。
- 「須田平野古墳2023年度発掘調査の成果(現地説明会資料)」 (PDF) (京丹後市教育委員会・京都府立大学文学部考古学研究室、2023年)。
- 地方自治体発行
- 「須田平野古墳」『久美浜町史 資料編』久美浜町、2004年。
- 「須田平野古墳」『京丹後市の考古資料』京丹後市〈京丹後市史資料編〉、2010年。
- 「平野古墳」『京都府の史跡・遺跡ハンドブック』 第3集、京都府教育委員会、2021年。
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)