頃公(けいこう、生年不詳 - 紀元前512年)は、中国春秋時代の君主。姓は姫、名は去疾。王室の内乱に対して晋軍を派兵した。国内で六卿の勢力が強くなり、公室は弱体化した。

頃公 姫去疾
公(周制における爵位は侯)
王朝
在位期間 紀元前526年 - 紀元前512年
都城 新絳
姓・諱 姫去疾
諡号 頃公
没年 紀元前512年
昭公

生涯

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晋の昭公の子として生まれた[1]紀元前526年8月、昭公が死去すると[2]、後を嗣いで頃公が晋公として即位した。紀元前525年、晋の荀呉(中行穆子)が軍を率いて陸渾の戎を滅ぼした[3]紀元前520年4月、周の景王が死去し、悼王が即位したが、これに不満を持つ王子朝が反乱を起こした。10月に晋の籍談・智躒(智文子)が九州の戎と焦・瑕・温・原の軍を率いて悼王を王城に入れたが、11月に悼王は殺害された。敬王が即位し、12月に晋の籍談・智躒・賈辛・司馬督は軍を率いて平陰・侯氏・谿泉にあり、社に宿営した。閏月、晋の箕遺・楽徴・右行詭は渡河して前城を占領した[4]紀元前519年1月、周の敬王の軍と晋軍は王子朝側の郊を包囲して破った。晋軍は平陰にいたが、情勢の好転を受けて本国に帰った。しかし周王室の乱は続き、7月に王子朝は尹氏の支援を受けて王城に復帰した[5]紀元前517年、晋の趙鞅(趙簡子)の主導により、・滕・薛・小邾の人々が黄父で会合し、王室の内紛を収拾するための善後策を協議した[6]紀元前516年11月、晋軍が王子朝側の鞏を攻め落とした。召伯盈が王子朝を追放し、王子朝はに亡命した。敬王は成周に入り、晋軍は成公般に成周の警備を委ねると帰国した[7]紀元前515年、晋の士鞅(范献子)の主導により、宋・衛・曹・邾・滕の人々が扈で会合し、成周の警備と魯の昭公の帰国について協議した[8]紀元前514年、晋の祁盈と楊食我が殺害され、祁氏と羊舌氏が滅んだ。晋の韓起(韓宣子)が死去し、魏舒(魏献子)が政権を握った。魏舒は祁氏の田土を分割して7県に、羊舌氏の田土を分割して3県に再編し、六卿がそれぞれ県大夫の任について領有した[9]紀元前512年6月庚辰、頃公は死去し[10]、子の定公が晋公として即位した[1]

脚注

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  1. ^ a b 史記』晋世家
  2. ^ 春秋』昭公16年
  3. ^ 春秋左氏伝』昭公17年
  4. ^ 『春秋左氏伝』昭公22年
  5. ^ 『春秋左氏伝』昭公23年
  6. ^ 『春秋左氏伝』昭公25年
  7. ^ 『春秋左氏伝』昭公26年
  8. ^ 『春秋左氏伝』昭公27年
  9. ^ 『春秋左氏伝』昭公28年
  10. ^ 『春秋』昭公30年
先代
昭公
君主
前526年 - 前512年
次代
定公