韓知古
経歴
編集耶律阿保機が薊州を平定したとき、述律皇后の兄の蕭欲穏に捕らえられた。述律皇后に従ったが、皇后の目に止まることがなく、志を得なかったため、単身逃亡して雇い人となり、物資の供給にあたった。
子の韓匡嗣が耶律阿保機の側近に仕えたため、名を知られた。耶律阿保機は知古を召し出して語りあい、その識見を認めて謀議に参加させた。神冊初年、彰武軍節度使に遙任された。のちに総知漢児司事をつとめ、諸国の儀礼を兼ねつかさどった。当時儀礼は廃れていたが、知古は典故を援用しながら、契丹の風俗にも配慮して分かりやすいように執り行った。
まもなく左僕射に任じられた。康黙記とともに漢人の部隊を率いて渤海を攻撃し、功績により中書令となった。天顕年間に死去した。
妻子
編集妻
編集- 甌昆摩撒
子
編集- 韓匡図
- 韓匡業
- 韓匡嗣
- 韓匡祐
- 韓匡美
- 韓匡胤
- 韓匡賛
- 韓匡文
- 韓匡道
- 韓図育氏
- 韓唐兀都
伝記資料
編集- 『遼史』巻74 列伝第4