韓 徳枢(かん とくすう、生年不詳 - 969年)は、(契丹)の政治家本貫幽州安次県

経歴

編集

韓延徽の子として生まれた。15歳のときに太宗と面会すると、太宗は韓延徽に対して「この子は卿の家の福であり、朕の国の宝であり、真の英物である」と評した。徳枢は成人しないうちに、左羽林大将軍を代行し、特進太尉に転じた。

ときに契丹に降伏した漢人の多くは東平に移住させられていたが、そこへ飢饉と疫病の災禍が襲った。徳枢は救恤を志願して、遼興軍節度使に任じられた。害虫を駆除し、食糧を援助し、農業や養蚕を勧めて、教化をほどこすと、数カ月のうちに民衆は安息を取り戻した。

入朝して南院宣徽使となり、天平軍節度使や平灤営三州管内観察処置等使に遙任され、門下平章事となった。開府儀同三司の位を加えられ、侍中を代行し、趙国公に封じられた。保寧元年(969年)、死去した。

子孫

編集
  • 韓紹勲(東京戸部使、大延琳の乱にさいして捕らえられたが屈服せず、惨死した)
  • 韓紹芳(参知政事・侍中、西夏に対する攻撃に反対して、広徳軍節度使として出された)

伝記資料

編集