韓徳威
経歴
編集韓匡嗣の子として生まれた。保寧初年、上京皇城使・儒州防禦使を経て、北院宣徽使となった。乾亨末年、父の喪のため辞職したが、復職すると臨時の西南招討使をつとめた。統和元年(983年)、党項15部の侵入を受けると、一戦してこれをしりぞけた。突呂不部と迭剌部の糾軍を領知した。稍古葛を平定した功績より、正式に西南招討使に任じられた。
夏州の李継遷が北宋から離反して契丹についたとき、徳威はかれを受け入れるよう契丹側で根回しした。李継遷が契丹についたため、西方の諸民族もまた契丹に服属した。統和4年(986年)、惕隠の耶律善補とともに北宋の楊業を討った。統和6年(988年)、開府儀同三司・同中書門下平章事の位を加えられた。ほどなく山西の城邑の多くを失陥したため、兵権を剥奪された。統和10年(992年)、李継遷がひそかに北宋についたため、徳威は兵を率いて赴いたが、李継遷は西征にかこつけて出てこなかった。徳威は霊州を略奪して帰還した。
家族
編集妻
編集- 蔑古乃捏睦袞
子
編集- 耶律遂忠
- 耶律遂正(字は韓隠、契丹名は雱金、彰国軍節度使)
- 耶律遂寧
- 耶律遂恭
孫
編集耶律遂正の子
- 耶律元佐(字は燕隠、契丹名は謝十)
- 耶律宗福(字は遵寧、契丹名は滌魯)
- 耶律元亨(字は宮寧、契丹名は高王六)
伝記資料
編集- 『遼史』巻82 列伝第12
- 韓徳威墓誌