鞠山騒動
鞠山騒動(まりやまそうどう)は、1868年(慶應4年/明治元年)に起こった敦賀藩(鞠山藩)のお家騒動。藩士5名が京都にて家老の野口文太夫俊則を殺害した事件である。
概要
編集若狭国小浜藩の支藩である敦賀藩は、1682年(天和2年)に成立し、越前国敦賀郡の一部を所領した1万石[注釈 1]の小藩である[1][2]。現在の敦賀市鞠山[注釈 2]付近に陣屋を構えており、鞠山藩とも呼ばれていた[1][2]。幕末、7代藩主の酒井忠毗は当初江戸幕府を支持したが、新政府軍が有利な情勢に傾くと立場が危うくなり、1867年(慶応3年)6月に最後の藩主となる8代忠経に家督を譲った[3]。
若い新藩主の忠経に対し、家老の野口文太夫は不遜な態度を取り上下をわきまえず、さらに藩政を簒奪しようと自分の子である有(たもつ)に忠経の妹を請うたとされる。
1868年3月13日(慶応4年2月20日)、忠経は朝廷参内のために家老や家臣らとともに江戸を出発し、3月12日に京都に到着した[4]。参内が済むと、野口は忠経を遊里に誘い、放蕩に陥れようとした。また、藩政を憂う家臣らが結託し、宗家の小浜藩に家老一派の専横を訴えるも、野口はその訴状を握りつぶした。5月22日、先代藩主の命を受けた小野瓢柄が悪評の実態調査に上京した際は、野口は事実を隠蔽した。さらに、野口が忠経を藩主の座から退けて、代わりに弟の忠之丞を就けようとしているとの風聞も立った[4]。
ここに至って、藩の行く末を案じた大澤驥申之・中村魁司隆則・加藤皷司郎吉幸・久保熊雄義致・松田重三郎教親の五名の藩士が、穏健派の家臣らの制止も聴かず、6月19日の夜、野口とその腹心の金子泰輔の宿泊先を襲い、両名を斬殺した。五名はもう1名の殺害対象である直田義外を探していたが、異変を聞きつけた野口の三男の野口銀三郎が斬り掛かって来たため、これも殺害した。この時点で夜明けとなったため、五名は宗家の小浜藩邸へ出向き、自首した[4]。
五名の自裁
編集5名の藩士は小浜藩へ送られるも、投獄はされなかった[4]が、彼らは強く自裁を望んだと伝わる[5]。1869年(明治2年)に久保は病死し、1872年5月9日(明治5年4月3日)に残りの4名は来迎寺門外にて切腹した[5][4]。その後、敦賀町民の募金により、来迎寺に5名の墓碑が建てられた[5][6]。
- 久保熊雄義致 明治2年1月25日病死、享年22歳
- 大澤驥(はやま)申之(かねゆき) 明治5年4月3日切腹、享年27歳
- 中村魁司(かいじ)隆則 明治5年4月3日切腹、享年37歳
- 加藤皷司郎(こじろう)吉幸 明治5年4月3日切腹、享年31歳
- 松田重三郎教親 明治5年4月3日切腹、享年28歳
なお、1870年4月19日(明治3年3月19日)には敦賀藩の名を改めて正式に鞠山藩としたが、同年9月27日に同藩は小浜藩と合併して消滅し[7]、忠経は小浜藩知事となったが、翌1871年(明治4年)の廃藩置県によって小浜藩が小浜県となると[7]、知事を辞任し、1884年(明治17年)12月に37歳で死去した。
判決文
編集鞠山藩士5名に対する罪科の言い渡し文は以下の通り[4]。
罪科言渡
元鞠山藩従五位酒井忠径家禄当時敦賀県士族
大澤 驥
中村 魁司
加藤 皷司郎
松田 重三郎
其方其儀、従五位酒井忠径[注釈 3]家禄之砌、去ル戊辰年、忠径ニ陪従在京中、同藩家老職野口文太夫 、従来驕傲凶奸ニシテ上下ヲ凌蔑シ、藩政ヲ私掠シ、奢侈甚シク、跋扈増長シ、猶不良之企謀有之哉之風説ヲ聞込、此儘ニ捨置候而者、主家前途ノ浮沈モ如何アラント、慨歎ノ余リ、文太夫並ニ同人ニ阿附謟諛シ、驕慢遊逸ヲ興ニセシ同藩金子泰輔、並ニ其場ニ面相拒候野口銀三郎ヲ及斬殺候始末、主家之為ト存詰候切迫之至情ヨリ為ス處ト雖モ、不良デ企謀候風説之儀ハ、確証モ無之儀、忠径陪従一時出張先ニ於テ、重役ヲ及謀殺候段、過激之至、不屈至極ニ付、自裁申付もの也、
一 久保熊雄儀、同罪ニ付、存命候ハバ、自裁申可付處、病死致ス間、其旨可相心得もの也、
明治五年三月 敦賀県[注釈 4]
脚注
編集注釈
編集- ^ 越前国敦賀郡内の5千石と近江国高島郡内の5千石の合計1万石であった。
- ^ 元は塩込という地名であったが、陣屋の設置に伴い、鞠山と改名した。
- ^ 「敦賀郡誌」の記載では「経」ではなく「径」となっている。
- ^ 明治4年11月20日に鯖江、敦賀、小浜藩の範囲に敦賀県が設置され、明治6年1月14日には現在の福井県の全範囲が敦賀県となった。その後、明治9年8月21日に敦賀と小浜藩は滋賀県に編入、さらに明治14年2月7日に現状の福井県が誕生した。