鞏彦暉
鞏 彦暉(きょう げんき、1204年 - 1259年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。易州の出身。
生涯
編集鞏彦暉は兄の鞏彦栄とともに武勇に長けた人物として知られ、鞏彦栄は保定路を拠点とする漢人世侯の張柔に属し、千戸の何伯祥配下の百夫長としてしばしば戦功を挙げた。後に鞏彦栄は老齢を理由に鞏彦暉に地位を譲り、鞏彦暉は張柔の配下としてモンゴル軍の第一次南宋侵攻に加わることとなった[1]。
鞏彦暉はまず棗陽攻めに功績を挙げ、その後何伯祥とともにそれぞれ一軍を率い、大洪寨に出兵した。これに対し、南宋側は荊州・鄂州で兵2万を選抜して救援のため赴いたが、鞏彦暉らは南宋軍を撃退し斬首500級、曹路分ら16人を捕虜とする功績を挙げた。その夜も南宋兵は攻め寄せたが、鞏彦暉は精鋭30人を率いて曹武鎮にて南宋兵を破り、その主将を捕虜とする功績を挙げた。その後、光州に転戦し、張柔が東北から攻め寄せる一方、鞏彦暉が伏兵200を率いて西南から接近し、南宋軍の不意をついて城壁を陥落させることに成功した。その次には滁州を攻め、夜間に池を渡って奇襲を行い、城の陥落に貢献した[2]。
その後の黄州攻めでは、諸将が壁塁の攻略に手こずる中、鞏彦暉は伏兵200とともに赤壁の下に潜み、南宋軍が夜半に出撃したところを奇襲し大勝利を得た。その後も張家寨の攻略、寿州攻めでの城門の奪取、泗州攻めでの敵将の搏殺などに功績を挙げている[3]。
1259年(己未)11月には、第二次南宋出兵に従軍して長江を渡り、武昌に進出した。これに対し南宋軍は兵4万を集めて攻め寄せ、鞏彦暉は迎え撃ったが、鞏彦暉は湖中で孤立してしまった。矢を打ち尽くし、重傷を負った鞏彦暉は湖水に身を投げるも、南宋水軍に救い上げられて捕虜となった。しかし鞏彦暉は尋問を受けても決して屈することなく、56歳にして捕虜のまま死去したという[4]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻166列伝53鞏彦暉伝,「鞏彦暉、易州人、与兄彦栄俱以武勇称。初、彦栄以百夫長隷千戸何伯祥麾下、累有戦功、後告老、以彦暉代之」
- ^ 『元史』巻166列伝53鞏彦暉伝,「諸軍伐宋、彦暉従破棗陽、斬首甚衆。万戸張柔之駐曹武也、彦暉与伯祥別将一軍破大洪諸寨。宋人出荊・鄂、選兵二万救之、彦暉与伯祥逆戦、斬首五百級、生擒曹路分等一十六人。是夜、宋兵来攻、彦暉率甲士三十人、追撃于曹武鎮、敵潰走、擒其主将以帰。戦光州、柔軍于東北、夜二鼓、命彦暉率勁卒二百伏西南、五鼓、東北声振天地、彦暉植梯先登、衆継之、破其外城、遂急攻、並其子城破之。戦滁州、彦暉率浮渾脱者十人、夜渡池水、入欄馬牆、殺守軍三鋪、焚其東南角排寨木簾、大軍継之、比明抜其城」
- ^ 『元史』巻166列伝53鞏彦暉伝,「会大軍攻黄州、諸将壁塁未定、有舟来覘、柔遣彦暉伏甲二百於赤壁之下、敵軍夜半果水陸並至、彦暉等曳槍俟其半過而撃之、敵大撓、死者無算、生擒十七人。師還、又破張家寨、以守将献。従攻寿州、奪其門、生擒三人以出。泗州之役、諸将自四鼓集城下、為塹水所阻、黎明無敢渡者、両軍交射如雨、彦暉被重甲逕渡、敵将来禦、彦暉刺其胸搏殺之、衆畢渡、至晡得其外城、尋登其月城。彦暉将下、顧伯祥失所在、乃与王進反求之、敵復追襲、彦暉力戦、翼伯祥以出、由是伯祥与彦暉如親昆弟然。事聞、賜彦暉銀符牌、俾兼鎮撫事」
- ^ 『元史』巻166列伝53鞏彦暉伝,「歳己未十一月、兵渡江、次武昌。宋援兵四集、彦暉逆戦、有舟数十来挑戦、彦暉逐之入湖中、伏出、囲彦暉数匝、左右莫能近。彦暉矢尽、短兵接、身被重傷、度不可免、遂投水中。敵援之出、載帰江州、見宋官不屈、問以事不対、竟死、年五十六」