鞏
春秋時代の諸侯国
国姓 | 姫姓 |
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爵位 | 伯あるいは公 |
国都 | 鞏(河南省鄭州市鞏義市孝義街道康店村) |
分封者 | 不詳 |
始祖 | 不詳 |
滅亡原因 | 晋により滅亡 |
史書の記載 |
『春秋左氏伝』昭公二十六年 『世本』氏姓篇 |
周朝諸侯国一覧 |
位置
編集鞏の都城の遺跡は現在の河南省鄭州市鞏義市孝義街道の西約3キロメートルの康店村一帯にある。そのため鞏王城と呼ばれる。鞏の北面には黄河、西辺には洛水、東辺には虎牢関、南辺には嵩山がある。鞏は天然の要害でもあった。
歴史
編集滅亡後
編集晋は鞏を滅ぼすと、鞏の領域は「周王畿の地」に属しているため、周王室に献上された。
戦国時代、周朝は東周・西周国の2国に分裂した。楚と趙の2国はこの形成を利用した。東周公は鞏王城を首都として立国した(東周国)。東周国は実際には韓の附庸国であり、紀元前247年に秦の呂不韋によって滅亡した(東周の滅亡)。鞏の地は秦王政により三川郡に編入された。