露天神社

大阪市北区の神社

露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社旧社格郷社。通称はお初天神

露天神社

拝殿
地図
所在地 大阪府大阪市北区曽根崎2-5-4
位置 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度 / 34.699278; 135.500806 (露天神社)座標: 北緯34度41分57.4秒 東経135度30分2.9秒 / 北緯34.699278度 東経135.500806度 / 34.699278; 135.500806 (露天神社)
主祭神 大己貴大神
少彦名大神
天照皇大神
豊受姫大神
菅原道真
社格郷社
創建 大宝元年(701年)頃
本殿の様式 神明造
別名 お初天神
札所等 菅公聖蹟二十五拝
地図
露天神社の位置(大阪市内)
露天神社
露天神社
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祭神

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祭神は以下の五柱の神を祀る。

歴史

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社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は大宝元年(701年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。社名は、「梅雨のころに神社の前の井戸からがわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、

露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば

との一首を詠んで涙を流したからとも伝えられている。

時代が下ると祭神を天照皇大神として祀っていたことから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた[1]

近世に入ると概ね摂津国西成郡曾根崎村キタの西半)が氏地となる。近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余の広さがあり、近松は当時の天神の様子を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記すほど木が鬱蒼と茂っていた。しかし、太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われた結果、現在の広さとなったものである[2]

お初天神

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元禄16年(1703年)に堂島新地の天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。1ヶ月後、近松門左衛門はこの2人の悲恋を人形浄瑠璃曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至るまで「お初天神」と通称されている。曽根崎心中の中では「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」とお妙の名と観音信仰(明治以前は神仏習合が常態であった)をかけている。なお「お初」は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺(大阪市中央区中寺)での戒名は妙力信女であることから「お妙」などが推測される。

境内

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P-51による機銃掃射の跡

ギャラリー

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境末社

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主な行事

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現地情報

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所在地
交通アクセス
周辺

脚注

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注釈

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  1. ^ 2世鴈治郎と3世鴈治郎(当時扇雀)の歌舞伎「曽根崎心中」の舞台写真をモチーフに作成された。

出典

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  1. ^ 露天神社|境内末社
  2. ^ 『大阪の史跡を訪ねて3 近世篇』(ナンバー出版)「お初天神 近松門左衛門名作の舞台」より

関連項目

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外部リンク

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