雷州
隋代以前は古合州といわれた。
唐代
編集621年(武徳4年)、唐が蕭銑を滅ぼすと、隋の合浦郡海康県の地に南合州が置かれた。南合州は海康・隋康・鉄杷・椹川の4県を管轄した。627年(貞観元年)、南合州は東合州と改称された。634年(貞観8年)、東合州は雷州と改められた。742年(天宝元年)、雷州は海康郡と改称された。758年(乾元元年)、海康郡は雷州の称にもどされた。雷州は嶺南道の安南府に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した[1]。
宋代
編集北宋のとき、雷州は広南西路に属し、海康県を管轄した。南宋のとき、雷州は広南西路に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した[2]。
元代
編集1278年(至元15年)、元により雷州に安撫司が置かれた。1280年(至元17年)、雷州路総管府と改められた。元のとき、雷州路は湖広等処行中書省に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した[3]。
明代以降
編集1368年(洪武元年)、明により雷州路は雷州府と改められた。雷州府は広東省に属し、海康・遂渓・徐聞の3県を管轄した[4]。