雲林院松軒
雲林院 松軒(うじい しょうけん、生没年不詳)は、日本の戦国時代の武将、剣豪、兵法家。通称は弥四郎、出羽守。諱は光秀(みつひで)。号は松軒。北伊勢雲林院城主。新当流開祖塚原卜伝の高弟にあたる。
生涯
編集先祖は源頼朝の御家人で、北伊勢の地頭・工藤祐長[要曖昧さ回避](薩摩守)に始まる。祐長は2人の息子に所領を分け、兄・長春は長野に城を継ぎ大和守を称し、弟・祐許が北伊勢の雲林院城を居城とし出羽守を名乗り、松軒はこの祐許系の出自にあたる。
はじめ光秀(松軒)は、本家の大和守とともに織田信長に対抗して滅ぼされ、一時柳生に隠棲した(『岩尾家先祖附』)。松軒と号したのはこの頃と考えられる。のち信長の召し出しに応じ、信長の三男・織田信孝の兵法指南役として仕官。『信長公記』には本能寺の変の頃、安土城の留守居役に雲林院出羽守の名を載せている。
松軒は剣豪として知られ、新当流開祖塚原卜伝の高弟で、卜伝より天文23年(1554年)に発給された天真正伝香取神道流の極意皆伝書(現存)が確認される唯一の弟子である。柳生宗矩は、足利義輝や北畠具教とともに天下に5人ほどもいない卜伝流儀の兵法者としている(『岩尾家文書』)。
新陰流上泉信綱の高弟・侏田豊五郎景兼(疋田景兼)から雲林院弥四郎入道(松軒)に宛てた新當流兵法起請文(永禄9年)や、大友宗麟の嫡男・大友義統(天正3年)、織田信孝(天正6年)の松軒あて天罰起請文が子孫の家に伝わっている(『岩尾家文書』)。また、宮本武蔵の伝記『二天記』に、武蔵の晩年に肥後熊本藩主・細川忠利の前で武蔵と立ち合った氏井弥四郎の記事があるが、これは松軒の子・雲林院弥四郎光成のことと俗にいわれている。しかし、これは武蔵の死後100年ほど後に書かれており同時代の一次史料はなく、雲林院を氏井と誤記しているため、武蔵流の弟子たちによる創作と考えられる。