難波経一
大正・昭和期の官僚、実業家
難波 経一(なんば つねかず、1901年1月11日[1]-1986年2月22日[1])は、大正・昭和期の官僚、実業家。東京府出身。妻直子は男爵岩倉道倶の二女、岩倉具視の孫娘である[2]。
経歴
編集東京府立一中(後の都立日比谷高校)、第一高等学校 (旧制)を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治学科卒[2]。大学時代は帝大運動会ラグビー部所属。
東大卒業後、直に大蔵省入省[3]。主税局属[4]。同期に古海忠之ら。当初東京税務監督局に勤務、ついで横須賀や神戸の税務署長を歴任したのち満州国に転出し、1933年1月より阿片漸減政策に基づき阿片取扱等を監督する専売公署副署長、専売総局副局長を歴任[2]。1937年11月に冀東政府最高顧問・河北省顧問に就任、その後満州国総務庁参事官を辞して民間に入り、満州電気化学工業常務理事・満州生活必需品配給株式会社取締役・外満州合成ゴム取締役等を経て[3][2]、1943年3月商工省金属回収本部初代本部長に就任する[5]。1944年6月より軍需省燃料局長官、1945年6月同整備局長官[6][7]。戦後は公職追放を経て[8]、山陽国策パルプ社長や会長を務めた[1]。
戦後の1947年、伊集院浩、香山蕃ら、鹿島建設と共に東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)建設に尽力し、また、世界で初めての40歳以上のラグビークラブである不惑倶楽部を創設して初代会長(会長在任期間:1948年(昭和23年)3月 〜 1971年(昭和46年)1月)を務めた。
家族
編集- 祖父・難波康経 - 池田藩蘭学医[9][10]
- 父・難波一 (1853年生) - 日本赤十字病院長。ウィーン大学でテオドール・ビルロートに師事し、帰国後、赤十字社病院の前身である博愛社病院の創立とともに外科医として就任。[10][9][11]
- 母・しょう(1870年生) - 松代藩士(政事所権大参事)・高野眞遜の長女。[10][12][13]
- 兄・難波康一(1897年生) - 東大物理科卒業後、マサチューセッツ工科大学で無線電信電話を研究、帰国後、逓信省電気試験所に勤務し、退官後、東洋ウェスターン電気録音部主任技師、理研工業技師長を務めた。[14]
- 姉・弘(1898-1920) - 太田収と結婚後1年で死去。[15][10]
- 妻・直子 - 男爵岩倉道倶の二女。岩倉具視の孫。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c 『日外アソシエーツ whoplus』「難波経一(山陽パルプ社長,関東ラグビー協会会長)」の項
- ^ a b c d 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』1943年、ナの部173頁
- ^ a b 『朝日新聞』1943年3月25日東京夕刊1頁「難波氏起用の事情」
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、248頁
- ^ 『朝日新聞』1943年3月25日東京夕刊1頁「金属回収本部長 難波経一氏を起用」
- ^ 『朝日新聞』1944年6月11日東京朝刊2頁「燃料局長に、難波経一氏 軍需省異動」
- ^ 『朝日新聞』1945年6月7日東京朝刊1頁「軍需省、地方に中堅起用」
- ^ 公職追放の該当事項は「満洲電気化学常務理事」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、425頁。NDLJP:1276156。)
- ^ a b 『閨閥: 結婚で固められる日本の支配者集団』鈴木幸夫、光文社, 1965, p156
- ^ a b c d 難波一『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ ビルロート余滴・20―Billrothに師事した日本人医師 佐藤裕、臨床外科 59巻8号 (2004年8月)
- ^ 高野廣馬レファレンス協同データベース、2013年03月26日
- ^ [1]『松代』第7号、真田宝物館、p8
- ^ 『現代財界家系譜 第2巻』現代名士家系譜刊行会、1969
- ^ 『明治百年100大事件・上』松本清張、三一書房、1975、p261