隠山 惟琰(いんざん いえん、1751年宝暦元年) - 1814年6月17日文化11年4月29日))は、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派。峨山慈棹の法嗣で白隠慧鶴の法孫にあたる。卓洲胡僊と並び、現在の臨済禅の二つの法系のうち隠山系の祖となった。その禅風は峻厳と評される。

隠山惟琰頂相

生涯

編集

越前国大野郡石徹白村(現・岐阜県郡上市)に白山神社[1]の宮司の子として生まれた。 1759年(宝暦9年)に美濃国洞戸興徳寺(岐阜県関市)住持の老山辨愚の下で出家する。1769年明和3年)、岐阜の瑞昌寺に移り3年間修行した後、出遊して1772年(明和6年)に武蔵国宝林寺の月船禅慧の許で学ぶ。1776年安永5年)に西国を行脚した後、1781年天明元年)に老山辨愚が開山した洞戸梅泉寺の住持となる。その後、江戸へ上り峨山慈棹より白隠禅の薫陶を受け、39歳で大悟する。さらに1792年寛政4年)、印可を受けた。

その後は峨山慈棹に従い清泰寺(岐阜県美濃市)、梅龍寺(岐阜県関市)等へ移った。峨山慈棹の下を辞した後は梅泉寺、梅龍寺の住持を務め、堅相寺(岐阜県山県市)を再建して後進の指導に当たる。

1804年(文化元年)に播磨国松源寺に隠棲するが、1806年(文化3年)に瑞龍寺(岐阜県岐阜市)に入り、その再建を行った。1808年(文化5年)に紫衣の勅許を得て、翌年には妙心寺開山関山慧玄の450年遠忌の導師を務める。1811年(文化8年)、瑞龍寺鶴棲院にて遷化。墓所も同寺にある。正灯円照禅師と諡された。著書に『隠山録』、『正灯円照禅師偈頌』がある。

多くの法嗣がいるが、中でも太原孜元、棠林宗寿、雪関紹珠及び顧鑑古范の4人を特に「隠山下四哲」と呼ぶ。

参考資料

編集
  • 『新版禅学大辞典』
  • 『妙心寺 650年の歩み』

脚注

編集