隋 世昌(ずい せいしょう、1226年 - 1286年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。

生涯

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隋世昌の父の隋宝は登州棲霞県より萊州萊陽県に移住し、金朝に仕えて管軍謀克に任命された人物で、モンゴルの第二次金朝侵攻時には懐遠大将軍・管軍都総領に任じられていた。しかしモンゴル軍の侵攻を受けて隋宝は投降し、萊陽県令に任命されるに至った[1]

隋世昌は隋宝の四男で、身長八尺の巨漢で重さ40斤の槍を振るう剛の者として知られていたという。1253年癸丑)には隊長に任じられ、海州に攻めてきた南宋軍を撃退する功績を挙げている。1262年壬戌)の東海攻めでは真っ先に城壁を登る功績を挙げ、馬軍隊官に昇格となった。1259年己未)の漣水攻めでは雲梯を用いて城壁を攻め、身にいくつもの傷を負いながら城の陥落に奮戦し、この功績により馬軍千戸に昇格となった[2]

1260年(中統元年)、南宋の将の夏貴が淮南新城を攻めてきたときは、隋世昌が夜間に乗じて南宋軍を奇襲し、斬首数百、守将2名を刺殺する勝利を得た。このころ、漣水がモンゴルから南宋側に寝返ったため、隋世昌は東馬寨城下にて南宋軍を撃退している。1262年(中統3年)には歩軍千戸の地位に改められ、行村海口に移った。1264年(至元元年)には萊陽県諸軍奥魯長官の地位を授けられている[3]

1269年(至元6年)からは南宋への侵攻に従事し、1270年(至元7年)には淄萊万戸府副都鎮撫に任じられて、万山堡を守ることとなった。1272年(至元9年)には南宋兵を鹿門山で破り、元帥の劉整の命を受けて新門の建築と、これを妨害しようとする樊城からの攻撃の撃退に従事した。その後、樊城・襄陽城の陥落にも尽力し、武略将軍の地位に遷った。モンゴル軍が黄涴堡より漢江に入り、新城攻めを始めると、隋世昌は数本の矢を受け、兜は壊れ、城壁から落ちるという重傷を負いながら新城の攻略に奮戦した。新城が陥落した翌日、司令官のバヤンは城壁の高さが1丈5尺余りあるのを見て、隋世昌の功績が最も上であると見なしたという。その後、長江を南に渡河するに当たって、これを阻もうとする南宋軍を破る功績を挙げている[4]

1275年(至元12年)には丁家洲の戦いに従軍し、この時の功績により管軍千戸に昇格となった。1276年(至元13年)には揚州を包囲し、隋世昌は南宋軍の糧道を断つために湖泊を巡っていたが、隋世昌の勇名を知る南宋軍は敢えて近寄ろうとしなかったという。揚州の平定後、四城兵馬使に任じられ、さらに平章のアジュとともに入見したときには宣武将軍・管軍総管の位を授けられている。1277年(至元14年)からは揚州に駐屯し、野人原・司空山などの城塞を平定して安撫使の地位に進んでいる。1280年(至元17年)には定遠大将軍・管軍万戸の地位を拝命し、さらに海賊を討伐した功績により安遠大将軍の位に進んだ。1286年(至元23年)には沂郯上副万戸の地位に改められたが、それまでの数百にわたる合戦で負った傷がもととなり、61歳にして病死した。死後、息子の隋国英が地位を継承している[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻166列伝53隋世昌伝,「隋世昌、其先登州棲霞人。父宝、徙居萊陽、金末隷軍伍、主帥奇其貌、以為管軍謀克、俄授懐遠大将軍・管軍都総領、鎮行村海口。太宗下山東、宝遂来帰、授萊陽令、歴萊州節度判官、終高密令」
  2. ^ 『元史』巻166列伝53隋世昌伝,「世昌其第四子也、渉猟書史、善騎射、身長八尺、鍛渾鉄為鎗、重四十餘斤、能左右撃刺。歳癸丑、選充隊長。宋兵来攻海州、世昌戦却之。壬戌、克東海、世昌先登、陞馬軍隊官。己未、攻漣水城、世昌樹雲梯攀縁而上、身被数鎗、衆従之、遂克其城、陞馬軍千戸」
  3. ^ 『元史』巻166列伝53隋世昌伝,「中統元年、宋将夏貴軍淮南新城、世昌夜乗艨艟抵城下、宋兵出戦、斬首数百級、刺殺其守将二人。未幾、漣水復叛帰宋、世昌軍于東馬寨城下、宋兵来攻、世昌撃走之。三年、改歩軍千戸、還鎮行村海口。至元元年、朝議分揀正軍奥魯、授萊陽県諸軍奥魯長官」
  4. ^ 『元史』巻166列伝53隋世昌伝,「六年、伐宋。七年、以世昌為淄萊万戸府副都鎮撫、守万山堡、建言修一字城以囲襄・樊、陞管軍千戸。九年、敗宋兵于鹿門山。元帥劉整築新門、使世昌総其役、樊城出兵来争、且拒且築、不終夜而就。整授軍二百、令世昌立礮簾于樊城欄馬牆外、夜大雪、城中矢石如雨、軍校多死傷、達旦而礮簾立。宋人列艦江上、世昌乗風縦火、焼其船百餘。樊城出兵鏖戦欄馬牆下、世昌流血満甲、勇気愈壮、而樊城竟破、襄陽亦下、遷武略将軍。引兵由黄涴堡入漢江、破沙洋。攻新城、世昌坎其城而先登、中数矢、傷臂、兜鍪皆裂、昏眩墜地、少蘇復進、遂下新城。明日丞相伯顔視所坎城、高一丈五尺餘、論功為上。従諸軍渡江、抵南岸、宋兵聯舟来拒、世昌捨舟師、率蒙古哈必赤軍歩戦、斬其将一人、宋師潰、世昌追之、復与戦、大敗之」
  5. ^ 『元史』巻166列伝53隋世昌伝,「十二年、従戦于丁家洲、以功陞管軍千戸、佩金符。十三年、囲揚州、世昌絶其糧道、兼搜湖泊、宋兵聞鉄鎗名、不敢近。揚州平、充四城兵馬使、従平章阿朮入見、授宣武将軍・管軍総管。十四年、戍揚州、撃野人原・司空山等七寨、皆下之、進安撫使、佩金虎符、鎮澉浦。十七年、拝定遠大将軍・管軍万戸、尋以獲海賊功進階安遠大将軍。二十三年、改沂郯上副万戸。世昌前後数百戦、体皆金瘡、竟以是疾卒、年六十一、封定海郡侯、諡忠勇。子国英嗣」

参考文献

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  • 元史』巻166列伝53隋世昌伝
  • 新元史』巻153列伝50隋世昌伝