陽侯真身
陽侯 真身(やこ の まみ/むざね)は、奈良時代の貴族。官位は従五位下・但馬守。
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 |
従五位下・但馬守 勲十二等 |
主君 | 元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 陽侯氏 |
子 | 令珍、令珪、令璆、人麻呂 |
経歴
編集元正朝の養老6年(722年)矢集虫麻呂・大和長岡らと共に養老律令撰修の功労により功田を与えられれ、真身の功田は4町であった。聖武朝の天平2年(730年)通訳養成のために粟田馬養ら4人と共にそれぞれ弟子を2人取り漢語を教授した[1]。『楊氏漢語抄』は真身の著作という説もある。
天平7年(735年)外従五位下に叙せられたのち、天平10年(738年)4月に豊後守、天平13年(741年)8月に但馬守と聖武朝後半は地方官を歴任し、同年4月には、巨勢奈弖麻呂・藤原仲麻呂らとともに、河内国と摂津国が河の塘(茨田堤)の境を争っている場所を巡検している[2]。天平20年(748年)外従五位上次いで従五位下に昇叙された。孝謙朝初頭にも但馬守を務めている。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。