陸卬
経歴
編集陸子彰と上庸公主(咸陽王元禧の娘)のあいだの子として生まれた。若くして聡明で、容姿が美しく、学問を好んで、広く群書を読んだ。文章を得意として、邢卲の賞賛を受けた。員外散騎侍郎を初任とし、高澄の下で大将軍主簿をつとめた。中書舎人・中書侍郎となり、太子洗馬を兼ねた。東魏が南朝梁と通交するようになると、陸卬は使者を接待する宴席に列して詩を賦し、必ず最初に完成させてみせた[1][3]。
中書侍郎に任じられ、修国史をつとめた。父が死去すると辞職し、喪に服して骨の立つまで痩せこけた。弟たちとともに墓のそばに廬を立てて住み、土を背負って墳墓を作ると、朝廷に孝行を賞賛されて、住所の名を孝終里と改められた。服喪を終えると、父の爵位を嗣ぐべきであったが、受けなかった[4][5]。
北斉の天保初年、常山王高演の推薦を受けて、給事黄門侍郎の位を受け、吏部郎中に転じた。上洛王高思宗が清都尹となると、陸卬は召されて邑中正となり、貝丘県を食邑とした。母が死去すると、喪に服して憔悴はなはだしく、病の床についた。五弟の陸摶の病死の報告を聞くと、悲痛のあまり息絶えた。享年は48。衛将軍・青州刺史の位を追贈された。諡は文といった。著作の文章14巻が残され、当時の世間に通行した[6][5]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。