陳遐齢
陳 遐齢(ちん かれい)は中華民国の軍人。西康地域などで活動した。字は立鶴。号は雲皋。
陳遐齢 | |
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プロフィール | |
出生: | 1873年(清同治13年) |
死去: |
1950年12月 中華人民共和国湖南省漵浦県 |
出身地: | 清湖南省辰州府漵浦県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳遐齡 |
簡体字: | 陈遐龄 |
拼音: | Chén Xiálíng |
ラテン字: | Ch'en Hsia-ling |
和名表記: | ちん かれい |
発音転記: | チェン シャーリン |
事跡
編集1894年(光緒20年)、甲午武挙に合格する。後に日本へ留学して陸軍士官学校を卒業した。1907年(光緒33年)、標統として四川省に赴任した。
1917年(民国6年)10月、護理川辺鎮守使に任ぜられ、西康地域に割拠した。翌年2月、熊克武の後任として正式に川辺鎮守使に任命された。4月、チベット軍が西康を攻撃してくると、陳はこれを迎撃した。しかし、北京政府中央の支援が望めなかったため、8月、和議を結んでいる。以後、7年に渡り陳は川辺鎮守使の地位にあり、1922年(民国11年)、北京政府から康威将軍の位も授与された。
しかし1924年(民国13年)5月に劉湘が川辺(川康)防務督弁に任じられると、川辺鎮守使の陳遐齢と鼎立関係になった。その後、陳は川軍指揮官である劉成勲の攻勢に押され、劉成勲は同年12月に劉湘の後任として川辺防務督弁に任じられている。1925年(民国14年)2月、川辺防務督弁は西康屯墾使に改組され、引き続き劉成勲がその地位に就いた。一方の陳は、大勢が決したと見て下野し、同時に川辺鎮守使も廃止されている。
下野後の陳遐齢はしばらく北京に隠居していた。1937年(民国26年)に帰郷する。その後は、湖南省参議会参議員などの職をつとめ、地方の名士として様々な社会事業に取り組んだ。中華人民共和国成立後も、そのまま故郷に留まっている。
しかし1950年12月、陳遐齢は反革命罪を問われて中国共産党により殺害された。享年78。1984年5月、共産党は冤罪による処刑であったことを認めて陳の名誉を回復し、あわせて「愛国人士」との認定も行っている。
参考文献
編集- 漵浦県県志編纂委員会, ed (1993) (中国語). 漵浦県志. 社会科学文献出版社
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 魏煜焜「劉成勲」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7。
中華民国(北京政府)
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