陳誠 (明朝)
陳 誠(ちん せい、拼音: 、1365年 - 1457年)は、明の外交官・探検家。字は子魯、号は竹山。本貫は吉州吉水県。
生涯
編集1393年、陳誠は挙人に、翌1394年には貢士となり、後に殿試において同進士出身の称号を得た。
1396年、サリク・ウイグル(撒里畏兀児、現在のツァイダム盆地西部地区)へ国境防衛施設設立のために派遣された。1397年、永楽帝により安南陳朝への使節として派遣された。1406年から1411年まで北京紫禁城の文淵閣において永楽大典の編纂に関わった。
1414年・1416年・1420年に陳誠は明の使節としてティムール朝の都のサマルカンドを訪れ[1]、この際の見聞を西域番国志及び西域行程記に記した[2]。
著作
編集関連項目
編集- ギヤースッディーン・ナッカーシュ - ティムール朝の第三代君主シャー・ルフの使節として永楽帝のもとを訪れ(1420年-1422年)、遣使記録を遺した[3]。
- ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ - スペイン出身の騎士・外交官。陳誠が訪れる数年前(1404年)にサマルカンドを訪れ、ティムール帝国紀行を著した[4]。
脚注
編集- ^ Tsai 2002, p. 162.
- ^ 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン : ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』第23巻第1号、東洋史研究會、1964年6月、1-27頁、doi:10.14989/152662、hdl:2433/152662、ISSN 0386-9059、NAID 40002659362、2023年2月15日閲覧。
- ^ 伴真一郎「明初における対モンゴル政策と河西におけるサキャ・パンディタのチョルテン再建―漢文・チベット文対訳碑刻,宣徳5年(1430) 「重修涼州白塔誌」の歴史的背景」『アジア・アフリカ言語文化研究』第84巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2012年9月、61頁、ISSN 0387-2807、CRID 1050001337708293248、2023年2月15日閲覧。
- ^ “クラビホ - 大辞林 第三版の解説”. コトバンク. 2013年3月1日閲覧。
参考文献
編集- Hecker, Felicia J (1993). “A fifteenth-century Chinese diplomat in Herat”. Journal of the Royal Asiatic Society (Cambridge University Press) 3 (1): 85-98. doi:10.1017/S1356186300003692 .
- Tsai, Shih-Shan Henry (2002), Perpetual Happiness: The Ming Emperor Yongle, University of Washington Press, ISBN 0-295-98124-5
- Goodrich, L. Carrington; Tay, C.N. (1976), “Ch'en Ch'eng”, in Goodrich, L. Carrington; Fang, Chaoying, Dictionary of Ming Biography, 1368–1644. Volume I (A-L), Columbia University Press, pp. 144–145, ISBN 0-231-03801-1