陳 瑀(ちん う、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。公瑋[1]本貫徐州下邳国淮浦県(現在の江蘇省淮安市漣水県)。父は霊帝期に司空太尉に昇った陳球[2]

生涯

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孝廉に挙げられ、公府に招聘され、洛陽の市場の長官を務めた。太尉の府にも招聘されたが、赴かなかった。永漢元年(189年)には議郎に任じられた[3]

揚州刺史陳温が死亡すると、袁術によって陳瑀が後任の刺史に立てられる[4]。しかし初平4年(193年[5]曹操によって撃ち破られた袁術が敗走してくると、陳瑀はその受け入れを拒絶した。改めて兵を糾合した袁術から攻撃を受けると、陳瑀は弟の陳琮を派遣して和睦を申し出たが拒否され、恐懼して下邳へと逃走した[6]

その後は行呉郡太守・安東将軍の官に就き、広陵郡海西県に駐屯していた。建安2年(197年)、孫策呂布と共同して袁術を討伐するよう、朝廷から詔勅が下される。この共同作戦の矢先、陳瑀は豪族の祖郎・焦已・厳白虎らと内応し、孫策の勢力の襲撃を図る[7]。しかし計画は露呈し、陳瑀は孫策配下の呂範・徐逸の攻撃を受けて大破。大将の陳牧が梟首された[8]

陳瑀は単騎で、冀州袁紹の下へ逃れた後、涿郡故安県の都尉に任じられた[9]

脚注

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  1. ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 袁術伝注『英雄記s:zh:三國志/卷06#袁術
  2. ^ 范曄撰『後漢書』陳球伝 s:zh:後漢書/卷56#陳球
  3. ^ 『後漢書』陳球伝注、謝承撰『後漢書』
  4. ^ 『後漢書』孝献帝紀によると、陳温は初平4年3月に、袁術によって殺害された。一方、『資治通鑑』漢記52は陳温の死を初平3年とし、『三国志』袁術伝注『英雄記』はその死を病死とする。
  5. ^ 司馬光『資治通鑑』漢記52 s:zh:資治通鑑/卷060#孝獻皇帝乙初平四年(癸酉,公元一九三年)
  6. ^ 『三国志』呉書 呂範伝注『九州春秋s:zh:三國志/卷56#呂范
  7. ^ 『三国志』呉書 孫策伝注『江表伝s:zh:三國志/卷46#孫策
  8. ^ 『三国志』呂範伝
  9. ^ 『三国志』孫策伝注『山陽公載記』